神話と青春との復活
豊島与志雄
内に漲る力、中から盛りあがってくる精神が、新たな建設には必須の条件である。大東亜に新たな文化が要望せられるとすれば――更に、少しく局限して、新たな文芸が要望せられるとすれば、その建設をつきあげてくるところの、内なる力、中なる精神を、どこに探り求めるべきであろうか。その場所は、既に現実の事態の中にある。一つは青春の復活である。これは力だ。一つは神話の復活である。これは精神だ。
文芸は、大抵の場合、行動を観照してきた。観照は外から眺める態度である。この態度をますます助長したものに、自意識の過剰や新ハムレット主義というようなものがあった。それらのものが、前大戦後の欧州文芸から盛んに伝えられ、また、吾々身辺の知性に於ても盛んに見られた。この間にあって、所謂プロレタリア文学は、その公式主義の残骸を曝しており、所謂逃亡主義の文学は、異境に於ける自己消費に終り、所謂行動主義の文学は、実行と行動との紛乱に悩んでいた。そして他の一部から、所謂報告文学がもたらされ、殊に戦陣からのそれがもたらされた。
この報告文学を軽視してはいけない。我国は徐々に、国をあげての行動にはいりこもうとしていたのである。国をあげて、だから各人も、国民として全身をあげて、行動にはいりこもうとしていたのである。そして現在では既にはいりこんでしまっている。
行動にはいりこむとは、固より、直接に戦場に立つことを云うのでもなく、直接に銃後運動にたずさわることを云うのでもない。生存の仕方の問題だ、生きることそれ自体が即ち行動だという、そういう生存の仕方がある。それは輝かしい時期であり或は時代である。
斯かる時こそ、真に青春の時と云うべきである。青春の解釈はいろいろあろう。個人についても、民族についても、国家についても、いろいろあろう。然しただ一つ、己の全部をあげてすっぽりと行動のなかにはいりこむ――このはいりこむとは、生きることそれ自体が即ち行動だという意味に於てのもの、そういうことの可能性を青春の本質だと私は観る。
現在、我国は国をあげて行動の中にはいりこんでいる。だから国民各自も、全身をあげて行動のなかにはいりこんでいる筈である。もしそうでない者があるとすれば、それは何等かの故障に依るものであって、民族としての血液の濃度を信頼するならば、それを非国民と呼ぶのは当らず、ただ
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