それだけきり俺には聞き取れなかったが、非常に長たらしい訳の分らないことを、声には出さずに口の中で唱えだした。どうして彼女がその長い文句を覚えたかが、何よりも不思議だった。勿論母はいつもそれを唱えていたが、母の生きてる間、彼女は神棚に振向きもしなかったのである。
俺の覚えてる限りでは、母は――と云っても俺には義理の母で、お久の実母だったが――いつも命より神棚の方を大事にしてるかのようだった。毎朝必ず御飯や水を供え、晩には必ず灯明をつけ、月の一日と十五日には御神酒を上げ、いつも青々とした榊を絶やしたことがなく、そして朝晩に長い間礼拝した。そのくせ俺やお久が冷淡にしてるのを別に咎めもせず、却ってそれを喜んでるかとさえ思われるくらいで、誰にも指一本触れることを許さないで、稀代の宝物にでも対するように、自分一人で妬ましそうにその用をしていた。死ぬ時までそうだった。病気で足がふらふらになってからも、神棚の用と便用とへだけは自分で立っていった。もう起き上れなくなってからも、朝晩は必ず寝床の上に坐らせて貰ってお祈りをした。お久に供物をさせる時には、じっとその様子を見守っていた。病気が重《おも》って口も碌に利けなくなると、しきりに手真似で何か相図をしだした。その意味がどうしても分らなかった。彼女はじれだして、ひょいと床の上に坐ってしまった。俺達は喫驚した。無理に寝かしはしたが、それが彼女にとっては最後の打撃だった。仰向にひっくり返って、息を喘ませながら、喉に火の玉でもつかえてるような風に、変梃な口の動かし方をして、しきりに神棚の方を指さした。その手はもう冷たく痙攣《ひきつ》りかけていた。お久が側についていて、頭を水で冷してやり、俺はまた大急ぎで、神棚に灯明を二つもつけ、神酒を上げ、新らしい榊の枝を供えたりしたが、まだ彼女の気に入らないらしかった。彼女の全身は神棚の方へ飛びかかってゆくような勢だった。骨ばかりの汚い手が神棚の方へ震え上り、白目がしつっこく神棚の方へ据えられ忙しない息がはっはっと神棚の方へ吐きかけられた。俺達はすっかり狼狽した。どうしたらいいか迷った。するうちに彼女は漸く静まった。ほっと安心すると、その時彼女はもう冷くなりかかっていた。
彼女が死んで、その葬式を済すまで、いやその後までも、俺達には神棚が不気味で気にかかった。然しどうにも仕様はなかった。神棚を取払ってし
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