掻きがとれないと、看做されている。そしてそのことは、外部に対する防壁とはならず、却って、防壁の薄弱を意味する。斯かる極東の地域は、国際外交の契約によって、軍事的な或は政治経済的な取極めによって、一時の安寧は保てようが、もしも事あって押し寄せてくる世界の波瀾に対しては、甚だ微力であるとしなければなるまい。
 とは言え、人は不安の中にも生きる、動揺の中にも生きる、苦難の中にも生きる。生きなければならないのだ。そういう生き方は、安泰の中に生きるよりも強烈だ。外に確固たる地盤がなくとも、内に信頼すべき支柱が拵えられる。斯くなれば、もう精神の問題である。人間の問題である。そして現代のヒューマニズムは、もはや、人間の復活でもなく、人権の回復でもない。それは新たな人間の生誕、新たな人生観の確立である。
 日本人は今、陣痛の苦悶をなめつつある。脱皮して新たな自己を産み出す陣痛なのだ。この陣痛を通りぬけて初めて、自立することが出来るであろう。
 これまで日本人は、上下に貫く強力な組織の中に縛りつけられていた。封建主義、階級意識、官尊民卑思想、其他いろいろな言葉で表現されるこの上下の組織は、つまり権力の上に成立していた。この権力を打倒しなければ、人は自立することが出来ないのだ。而も現代社会に於ける人間の自立は、個人々々の人格的自覚の上にのみ在るものではなく、大衆の有機的一員としての自覚、社会の有機的一員としての自覚、そういうものの上にも在らねばならない。言い換えれば、自己と社会とを含む自治精神によっての自立なのである。この自治精神は、あらゆる種類の強権主義に反撥するが、然し単に政治的にのみ理解されるものではなく、人間の生き方として理解されなければならない。
 それからまた、日本人は世界のあらゆる文物を急速に取り入れながら、自己の殼を脱ぎ捨てることを怠っていた。その最も顕著な現われとしては、国内に於いては、他国の人々に対していつも微笑を示しながらも、自分のまわりに屏風を立て廻し、胸襟を開いて交際することが出来なかったし、国外に於いては、その風土になじむことをせず、いつも自分等だけの特殊部落を拵えた。そういう殼を、日本人は脱ぎ捨てなければならないのだ。一つの民族たることがまた人類たることへ通ずる精神、即ち世界精神こそ、日本が現在あろうとする平和国家の人間には、不可欠の条件である。かかる世界精神は、外交的儀礼の一作法として理解されるものではなく、体得された心理感覚として理解されなければならない。
 この二つのもの、自治精神と世界精神とを、日本のエリット達は己が旗幟として掲げようと必死になっている。障碍は多い。然し努力は挫けないであろう。そしてこのことに、中国のエリット達は必ずや衷心から同感するに違いない。中国にはこの二つの精神が、意識的にせよ無意識的にせよ、既に多分に存在するのだ。
 私は嘗て、中国の現在の或る人々について、彼等が中国人であるよりもより多く世界人であると、驚嘆と同感の念を以て言ったことがある。その時、中国の知人達から、それは皮相な見解であるとされた。或は実際そうであるかも知れない。欧米で修学した人々が、欧米の風習を容易く身につけている、その外見だけに囚われた見方かも知れない。そうであるかも知れないが、然し、他の見解も成り立たないであろうか。
 魯迅の作品には、民俗的な生活雰囲気が余りに色濃く描かれているが、それに対する愛憐と嘆息との色調があり、この色調の源泉を重視してもよいであろう。林悟堂の真姿は、彼の中国語の文章の中にあるというのが本当だとしても、英文の著作の中にある彼の姿もまた、虚偽のものではなかろう。他国にある華僑たちは、その相互間に、連帯責任と相互扶助との密接な連繋があるとしても、異境に悠々自適するその生活態度は、重視するに価しよう。中国の社会は広大で複雑で、互に通じ合わぬ幾つもの言語が現存し、頭脳の回転の速度も北部と中部と南部とでは可なり異り、政治経済の情勢も時と処とによって変るが、そういう社会に生きてる或る人々の社会的訓練は、そのまま国際的なものにまで通用する性質のものではなかろうか。その他、例証はいくらもあるが、それらのものが、或る人々の身に着いて、その精神状態の基盤となる時、それはもはや一のローカル的特色ではなくて、世界精神の温床であり萠芽であると言ってもよかろう。
 また、自治精神については、これは既に中国民衆の智慧となっている。彼等が、あらゆる権力に背を向け、政治に対して無関心でさえあり、而もさまざまの動乱の中に怜悧に身を処していることは、周知の通りである。――知識階級の若い人々の熱烈な政治論議が、往々にして宙に浮くのは、この民衆の智慧を見落していることに由来するのではあるまいか。
 世界精神と自治精神、この二つのも
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング