れが知りたいのだ。
 お互にそういうことを知り合うには、親しく交際するのが最も近道である。次には書物に頼ることだ。言語の障壁は飜訳によって除かれ得る。飜訳書の出版を盛んにすることだ。これについては、中国も日本も飜訳権などのことをうるさくは言わないに違いない。良書の選択と良心的な飜訳と、この二つの条件さえ揃えば、他に面倒なことは起るまい。そしてこの二つの条件は、両国とも容易に具備され得るだろう。見通しは明るい。――其他、共同研究所の開設とか、教授や学生の交換とか、方法はいくらもあるだろう。
 ところが、最後に問題が一つ残る。経済や技術や医療など、実用的な方面のことは、隣接の地理的条件、生活条件のため、提携は比較的容易く行われるだろう。然し精神文化の部面に於ては、距離は勘定に入れるわけにはゆかない。またこの大変革の新時代にあっては、旧来の伝統も、大した力を持つとは思えない。儒教も仏教も、実際的には既に中国でも日本でも死んでいる。同文同種などということも、もはや信頼の根拠とはならない。そして近代文化については、中日両国とも後進国に過ぎない。お互について学ぶよりも寧ろ、先進の米英仏露に学びたいのだ。
 こういう事情の下に、最も大切な文化的提携交流が、如何にして可能であるか。単に好奇心から発したものや、後進同士手を執り合うという気持ちから発したものなど、浅薄なもの以外に、真に鞏固な根深いそれが、如何にして可能であるか。互に刺戟し研磨し、互の創造力を助長し合うような根拠が、どこかに見出せないものであろうか。
 吾々の生存の場として再認識される極東の地域は、中日両国の親和提携によらなければ、その安寧は期し難い。然しながら、両国の親和提携のみに頼るわけにはゆかない。現代では、地球は余りに狭い。一局部の波紋は直ちに全世界に伝わる。極東にも全世界の波瀾が押し寄せる。そして全世界は安定ではなく、国際連合の努力にも拘らず、時にはその努力が宙に浮き上るほど、動揺の胚種が地盤に内蔵されている。いつ、いずこに、如何なる爆発が起るか分らない。その時にまき起される波瀾に、極東は自力で対抗出来るか。
 日本は既に武力を捨てた。自己防衛の力さえも持たない。中国はその広大な土地と四億数千万の人口とを持ちながら、内部抗争の紛擾の中にある。忌憚なく言えば、中国は一種の泥沼であって、そこに足を踏みこんだらもう足
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