食慾
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)生臭《なまぐさ》い

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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 同じ高原でも、沓掛の方は軽井沢より、霧も浅く湿気も少ないので、私の身体にはよいだろうと、そう野口は申しましたが、実際、私もそのように感じました。けれども、私の身体によろしいのと同じ程度に、野口の身体にもよろしいので、私達の間の健康の差は前と同様でした。……おう、うっかり口に出ましたが、健康の差……夫婦の間で、相手の体力や気力と自分の体力や気力とを比較して、そしてはっきり意識しますこと、それがどんなことだかは、実際に経験した人にしか分るものではありません。
 おかしな話ですが、家の庭に、毛の深い身体のまるっこい黒犬――熊を小さく可愛くしたような恰好なので、クロと私達は呼んでいましたが、それがよく遊びに来ますので、いろんなものを食べさしてやりました。或る時、何もなかったので、野口は自分で鰹節をかいて御飯にかけてやりました。恰度鰹節が小さくなっていましたところ、野口はクロに食べさした後、いつまでも丹念にその鰹節をかき、中身のきれいなところだけにみがきあげておいて、それからその、歯も立たないような堅いのを、犬と戯れながらかじり始めました。奥歯や犬歯でがりがりかんだり、しゃぶったりして、如何にもおいしそうです。私は縁側にしゃがんで、遠い鈍痛のこもってるような胃部を押えて、彼の様子を眺めていましたが、彼は鰹節をしゃぶりながら、私の方を振向いて、微笑みかけ、それからふと、その微笑を消して、じっと私の顔を眺めました。その眼の中に、憐れみ……氷のように冷い憐憫を、私は読み取りました。
 ――「そんな、そんなばかなことがあるものか。気のせいだ。」と野口は申します。
 けれど、憐憫にも、氷のように冷いものがあることは事実です。とは云え、鰹節の話なんか全くつまらないことかも知れません。
 私は身長五尺五分、体重十二貫と少し、そして野口は、身長五尺五寸余、体重十六貫ばかり。この違いは、男と女にしてみれば、まあ仕方ないことかも知れませんし、私の胃腸の持病にしたところで、そう大したものではなく、養生の仕方によってはなおることもありましょうし、野口もそのつもりで、親切にいたわってくれます。朝の御飯がおいしく食べられるようになれば、もう病気はなおったも同様だ、とそう申しては、私の朝御飯に注意してくれます。けれども私は、いつからとなく、自分のことよりも、野口のことが目について仕方なくなりました。野口は、朝から何か生臭《なまぐさ》いものを食べるのが好きです。沓掛に来ましては、魚類が不便なので、牛肉の罐詰や佃煮や、時にはすぐ側の旅館にたのんで鯉こくなどを、朝から食べました。そして、脂のぎらぎら浮いてる味噌汁を、音を立ててすすったり、佃煮で茶漬にした御飯を、くしゃくしゃかんだりしますのを、そばで見ていますと、その匂いがむかむかと胸にきて、私はもう何にも食べる気がなくなります。いくら眼をそらしてもだめなんです。すると野口は、気の毒そうな眼付で私を眺めます。やはり、冷い、氷のような憐憫です。その奥に、恐ろしい野性……そんなものを私は感じてはいけなかったのでしょうか。
 ――「お前は、胃腸も悪いかも知れないが、それより、神経衰弱かも知れないよ。」と野口は申します。
 まあなんと、安っぽく、片付けてしまったことでしょう。時々、野口のそばで、私はぞっと、云い知れぬ不安を覚ゆることがありましたが、それは神経衰弱なんかのせいではありません。野口のうちには、何かこう、私を押し潰してしまうようなものがありました。それが何であるか、本体を捉えようとすると、私はただ、自分の弱さや脆さを感ずるだけでした。そして息苦しくなるばかりでした。けれど、例えば……こんな言葉を使ってよいかどうか分りませんが……例えば、木村さんの側では、私はそんな圧迫を感じないばかりか、却って楽に息が出来、気持が晴ればれとして、頭の中まではっきりしてくるようでした。木村さんについては、野口は変なことを言ったことがあります。「木村君は、なるほど、才能もあるし、明敏だし、好男子でもあるし、立派な人物かも知れないが、然し、あの香水の匂い……三十男の独身者の香水の匂い、あれだけはいけない……。」その本当の意味が、私にははっきり分りませんでした。というのは、私がぼんやり感じますところでは、男の人で三十年配の独身者は、大抵、何かしらひどく男臭いもので、それを消すために多少香水を使ったとて、いけないわけはありませんでしょう。或はまた、三十三までも独身でいるのがいけないというのなら、猶更おかしなことでしょう。それにまた、木村さんとしては、過去に失恋されたこともありますし、三十三まで独身でいられても不思議ではありません。また、三十三で独身でいても、ちっとも男臭くなるような人ではありませんから、香水なんかも、他意あって使っていらるるのではないんでしょう。木村さんて、そういう人なんです。何となく弱々しい、夢の多い、感情のデリケートな方でした。そして子供が嫌いでした。子供を相手にしていると、神経を不自然に使わせられる、と仰言っていました。そして、あたりの別荘には大抵子供連れの人たちばかりでしたし、御自分は一人で旅館に泊っていられたものですから、退屈なさると、よく私達のところへ遊びに来られました。
 私は知らず識らず、野口と木村さんとを比較して考えることもありました。そして心易い気持から、野口の側で感ずる気詰りなことどもを打明けることもありました。「それは、あなたが、御主人の仕事をよく理解していられないからではありませんでしょうか。」と木村さんは云いました。おう、男の人って、どうしてこう、仕事仕事……と、そればかりを大事にするんでしょう。第一、野口に、どんな仕事があるのでしょう。私立大学の先生で、歴史や文化や語学の勉強……それも仕事にはちがいありませんけれど……この点については、私は、野口に近い考えを持っております。「夫婦の愛は、良人の仕事に対する理解の上に立てなければならないというのは、ばかげた考えだ。時によると、女のなまじっかな理解などは、却って男の仕事を害することさえある。充分に愛を持っていない者だけが、いろいろ愛について理屈をこねるんだ。」そんなことを以前野口が申しました時、私はひどく淋しい気がしましたけれど、やはり、それが本当ではないかと思うようになってきました。愛しないのは愛が足りないのだ、それに違いはありません。とは云え、愛を邪魔する何かがあるような場合があることも、事実です。
 外を歩くのが私の身体によいというので、私達は時々あちらこちらへ出かけました。軽井沢方面は前年の夏に知りつくしていましたので、浅間山を中心に、押出岩の方面や追分の方面へ出かけました。けれど私は余り気が進みませんでした。外を歩いていますと、野口と私との間に共通の話題の少いのが、殊に目立ってきました。景色のことなどは、そういつまでも話せるわけのものではありません。そして私は淋しい気持で帰ってくるのでした。
 そういうことに反抗したい気持も、私の心の奥にあったかも知れません。或る日、木村さんをお誘いして、六里ヶ原へ出かけました時、私はひどく快活な様子になりました。小浅間の肩の峯の茶屋まで自動車で行き、それから歩いて分去の茶屋まで行き、そこで街道をすてて左にはいると、もうすぐに、なだらかな斜面の六里ヶ原です。ごろごろした熔岩と火山灰との荒野で、遠く間をおいて小さな雑木が少しあり、他は見渡す限り広々と、浅間葡萄に這松ばかりです。その小さな雑木の影で、サンドウィッチをたべ、お茶をのみ、焚火をしたりしました。それからやたらに歩きました。浅間葡萄の熟した実を見つけるのが楽しみでした。火山灰の地面には、ところどころ、思いもかけないところに、大雨の際の水の流れの跡があって、一間余りも深い溝を拵えています。そこに飛びこむと、なかなか上れないことさえあります。木村さんは、「自由を吾等に」のフランス語の主題歌などを小声で歌いながら、ステッキを打振っていますし、私は頓狂な声を立てて、深い溝の中に落っこったりしました。ただ野口だけは、いつもの通り落着き払って、そしてずっと後れて、四方の山を眺めながら、悠々と歩いていました。その姿を見ると、私には、荒野の中につっ立ってる巨人のように思われます。巨人……私のことなんかは気にもとめない縁遠い他人……というほどの意味なんです。実際、彼は私のことなんかは何とも思っていなかったのでしょうかしら。遠くの方で、深い溝の中に一緒に飛びこんだり這いあがったり、顔をつき合して浅間葡萄の実を奪いあったりしてる、私と木村さんとのことを、何とも思っていなかったのでしょうかしら。もしも……もしも……私と木村さんとが、抱きあって、唇でも……。見ると、木村さんは、皮膚に血の気の浮いた顔をして、子供のように純真な眼付をしています。私も子供のようでした。二人は手を取りあっても、おんぶしても、抱きあっても……決して不自然ではなかったでしょう。それを、野口はどうして引止めようともしないのでしょう。僅かばかりの嫉妬の気持さえ感じないのでしょうかしら。私はそんなに無視されてもいいものでしょうかしら。……何かえたいの知れない熱いものが、胸の底からこみあげてきて、私は頬がひきつるのを感じながら、つっ立って木村さんを見つめました。木村さんは卒直な驚きの表情で、眼をまるくして、近寄ってきました。私はくるりと後ろを向きましたが、とっさに、涙が出てきて困りました。駆け出して、溝の中にとびこんで、涙をふきましたが、あとは、へんに白々として淋しい気持で、木村さんがやって来ても、口を利く気がしませんでした。「どうかなすったのですか。」「いいえ……。」そして私は強いて微笑みましたが、なぜか、蒼白い微笑というような感じが胸にきて、妙に身体の硬ばるのを覚えました。そして浅間葡萄の茂みの上に腰を下し、わざと、煙草を一本もらって、戯れにふかしました。
 すぐ後ろの方、見上ぐるばかりに聳えてる浅間山の横手から、大きな夕立雲が盛上っていて、それが太陽をかくし、六里ヶ原は半ば影になって、冷々とした空気が流れていました。が遙か彼方の空は、一杯に日の光を含んで、白根や万座の山々がくっきりと浮出していました。それらの広茫たる景色を眺めていますと、私はひどく心細くなって、もう木村さんのことなんか頭になく、相変らず悠々と歩いてくる野口の姿を、力強く感じました。けれどその力強さは、自分の孤独感を益々深めるような性質のものでした。夕立雲は、見上げていると、むくむくとふくれ上って、今にも凡てのものを蔽いつくそうとしてるがようでした……恰度、数日前のように……。
 あの時、私達は家の縁側にいて、夕立雲が空を呑みつくしてゆくのを眺めていました。雲に空がかくれて、向うの小山から谷間へかけて、暗澹とした影がたれこめたかと見るまに、ぱらぱらと大粒な雨がきて、いきなり、ぴかりと……それはもう光とも響きともつかないものでした。私は室の奥にとんで行きました。するともう、激しい驟雨で、その間をぬって、ごうっとひどい雷です。それでも野口は、縁側で煙草をふかしながら、落着き払っています。いくら危いと云っても、笑っています。やがて一際はげしく、大地に岩石でも叩きつけるような擾乱が起って、私はそこにつっ伏してしまいました。暫くして、ほっと我に返り、おずおず顔をあげてみると、野口は私の側にいてくれましたが、やはり、愉快そうに外の雷雨を眺めていました。そして私の方を顧みて、大丈夫だよ、恐いと思えば恐くなるし、痛快だと思えば痛快になるものだ、と云って微笑しましたが、その時また、ぴかりときたのが、彼の近眼鏡にぱっと映って、その後から、不敵な眼付が覗きだし
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