居室に戻ってから、十分間ばかりたって、キヨが起き上り、玄関の戸を静かに開けた。戸のすぐ外に、李は地面に尻をつき両膝をかかえて蹲まっていた。蹲まったまま動かなかった。肩を揺られ名を呼ばれて、李はきょとんと顔を挙げた。眠っていたのである。手の甲で眼をこすり、大きな欠伸をし、キヨに援けられて立上り、よろよろとはいりこんでき、靴をけはなし、スリッパもはかずに、夢遊病者のように階段を上っていった。
その朝のこと、タカが先に玄関に出かかると、帳場の窓の前に天井から、大きなものがぶらりと下っていた。タカは鋭い一声をたてて逃げてきた。キヨが、打震えてるタカと手を取りあい寄りそって、そっと覗きにゆくと、果して、窓の上の鴨居からぶらりと下っていた。足がないし、頭がないし、よく見ると、泥まみれの李の外套だった。それでも気味がわるく、二人は正枝を起しにいった。
正枝はいきなり玄関の中の電灯をつけた。明るくなってみると、下ってるのはただの汚れた古外套だった。椅子を持って来て取りおろさした。鴨居にあるのは小さな錆び釘で、正月の輪飾りをかけた残りのものだった。
正枝は腹をたてて、外套を持っていった。
終日、李は物も食べずに寝ていた。八度ばかり熱があると云った。
晩になると、正枝はキヨを李の室にやった。解熱剤をあげるから来なさい、というのである。
李はおとなしく、着物にきかえ、褞袍をひっかけて出て来た。片肱を長火鉢にもたせ煙管で莨を吸ってる正枝の前に、恐縮したようなお辞儀をした。
正枝はまず解熱剤をのませておいてから、いきなりやりこめた。
「なんですか、昨夜《ゆうべ》のざまは。」
「済みません。昼間雪が降ったから、嬉しくなって……。」
正枝は眼を瞠った。
「夜はもう解けてましたよ。」
「それでも、昼間降ったでしょう。」
正枝は微笑しかけたが、それを無理に押しころした。
「そんなに雪が好きなら、犬にでもなりなさい。犬みたいに酔っ払ってさ。」
云ってしまってから、正枝は自分で困ったように、不機嫌に口を噤んだ。また微笑が浮びそうだったのである。だがその可笑しさは、李には通じないらしかった。
「そうです。でも、おばさんもひどいです。表を開けてくれないから、犬のように外で寝て、すっかり風邪をひきました。八度二分熱が出ました。」
正枝はまだ黙っていたが、ふいに云い出した。
「外套はどうしたんです。」
李は腑に落ちないような顔をあげた。
「外套を、どうしてあんなところに懸けたんですか。」
李は返事もせず、何か考えてるようだった。正枝はそれに押っ被せて、外套のことを責めたて、春日荘にけちをつけるつもりかとまで云った。
「あゝ分った。」と李は頭を叩いた。「夢をみました。おばさんから閉めだされて、悲しくて悲しくて、泣いてるうちに、死んでしまいたくなり、玄関にぶら下った夢をみました。それだったんでしょう。」
「何がそれです。」
「そういう夢をみたのを、覚えています。その夢が、外套だったんです。」
こんどは正枝の方で分らなくなった。二三度おかしな問答を繰返した後、諦めてしまった。
「なんだかちっとも分りません。熱があるんでしょう。早く行ってお寝みなさい。」
李がしょげ返って出てゆき、一人になると、正枝はまた腹がたってきた。女中にあたりちらした。
だが、話はそれきりになり、外套は結局、正枝の手で泥を払われアイロンまでかけられて、李に渡された。
その時、李はひどく神妙な様子で、今後は酒を節すると誓い、そうした気持の支柱になる事柄を考えついたから、室代の二十二円を、二円だけまけて下さい、と云いだした。理由を尋ねても、返事をきくまでは打明けられないと強情を張った。しまいに正枝が、それでは一円まけてあげようと折れると、李はほんとに嬉しそうな顔をした。そして云うには、これから、まけて貰った一円とそれに自分が一円だして、毎月二円ずつ正枝に預けることにする、その金は春日荘を去る時に貰えばよく、それまで正枝に貯金をするのだ……。そう聞くと、正枝も喜び、だが郵便局にでも預けた方がよいと勧めたが、李は承知せず、これは自分の心の修養の支柱だから、是非とも正枝が預ってくれなければいけないと主張した。
正枝から李へ小さな手帳が渡され、第一回の二円のところに正枝の印が捺された時、正枝はひどく感心し、李はひどくにこにこしていた。
然るに、正枝にちょっと不快を与えたことだが、三ヶ月たった時、毎月二円ずつ貯金をしていてもう三ヶ月になるとの証明に、印を捺してくれと李が云いだした。何にするのか李は笑って答えなかった。拒むべきことでもないし、李の笑顔に信頼して、正枝は捺印してやった。すると半月ほどたって、李の伯父に当るという人から、手紙が届き、永泰をいろいろ導いてくれ貯金までさせて下さ
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