んです。」
「だから、これ、軽井沢からのお土産です。」
「軽井沢ですって。」
「ちょっと寄りました。浅間山に登ってきました。」
「そして、別所さんは……。」
「一緒です。」
 別所のことを云い出されても、李は訝る気色もなく、初めから分ってたもののような応対だった。
「浅間の噴火口はみごとです。ほんとによいことをしました。別所君をあの中に叩きこんでやりました。」
「え、噴火口に……。」
「それがよかったんです。元気になって一緒に帰ってきました。」
 正枝は暫く黙っていた。そして案外低い声で云った。
「なぜ断って行かなかったんですか。どんなに気を揉んだか知れませんよ。」
「ひどく急でした。別所君がふいに、行こうと云いました。噴火口にとびこむか、断然あれを思いきるか、どっちかにすると云うんです。だから、見届けについて行きました。」
 正枝はその話についてゆけなくて、ぼんやり李の顔を見戍った。
「御飯をたべさして下さいよ。おなかがすいています。昨夜《ゆうべ》から汽車の中でなんにも食べていません。」
「今あげますよ。それよりか、はっきり話してごらんなさい。あなたの話はちっとも分らない。」
「だって、おばさんに分ってるんでしょう。」
 分ってる筈だというように、明らさまな眼で正枝を見あげた。
「分っているけれど、もっとはっきり話してごらんなさい。」
 そこで、李が前後めちゃくちゃに話したところに依れば――
 別所は野田沢子――「パルプ」の断髪の女――に失恋し、その上、沢子と他の男とのひどく親しい様子を見せつけられ、二人が自分を嘲笑してるのだとひがんで、自暴自棄な気持に陥っていった。沢子を「パルプ」に紹介したのは別所であり、随って此度は、「パルプ」から脱退したらよかろうとあてつけてやった。それが却って彼の敗亡者たる立場を浮出さした。そういうところへ、彼が心血をそそいで書いていた小説は、李から見ると全く寝言みたいな他愛ないものだった。何等の真実性もない文字の羅列にすぎなかった。彼は苦悩の余り血を吐いた。失恋と病弱と自信喪失と、これは自殺に誂え向きの定型である。泣いたり怒鳴ったりした後で、死んでみせると別所は云った。死ねなかったら生き返るとも云った。そこで、李が立会人となって、突然浅間行きを決行した。別所が自殺するか生き返るかを、李は「絶大な興味で観察する」役目を自ら荷った。二人は沓掛に急行し、二日間は雨天のため酒で過し、次で夜中に出立して浅間に登った。まだ夜明け前に噴火口を覗き、雲海の上の日の出を迎え、更に噴火口の縁に長時間佇み、別所は全く「噴火口の中に没入し」、李も同様、あの端正荘厳な噴火口に魅惑され、二人はひそやかに「天上的な言葉を囁き交し」、それから浅間をかけ下りた。危険だが追分口の近道を取り、山麓の森林中で道に迷い、山蟻の巣を蹴散らし、「山蟻を全身に浴び」ながら、沓掛に出で、軽井沢まで自動車を走らせて、食事をし土産物を買い、夜中に汽車に乗った。「異常な興奮に」殆んど眠らず、金が無くなったので何にも食えず、「懐中は空虚で心意は充溢」して、戻ってきたのである。別所とは上野駅で別れた……。
 そんな話を、正枝は半ば楽しく聞き取った。
「まるで小説のようですね。」
「小説以上です。」と李は真面目に云った。
「だけど、ふだんあれほど云っといたんですから、これからは、家を空ける時は断らなけりゃいけませんよ。」
「そうです。それが、家にいる時はよく分っていますが、外に出ると、忘れてしまいます。」
「忘れるなんて……。」
「忘れるんです。ばかです、僕は。」
 李は拳で頭を二つ三つ叩いた。そしてふいに、眼をしばたたいた。
「おばさんは、こんどのこと、僕を叱りますか。」
 正枝は苦笑した。
「叱るにも価しないんですか。」
 正枝は眼を丸くした。李は涙ぐんでいた。
「叱って下さい。僕はおばさんに軽蔑されるのが一番悲しいんです。」
 李がほろりと涙をこぼしたので、正枝は度を失った。あれからどんなに心配したか、江原さんも二人のことをどんなに心配したか、それを云ってきかせ、更に、李の室を無断でいろいろ検べたりして悪かったと、そんなことまで打明けた。
「ほんとですか。」と李は叫んだ。「そんなら嬉しいです。おばさんなら、どんなに室の中をひっかき廻されても、ちっとも構いません。世の中に、母親みたいな人は、たった一人きりありません。」
 そこで、二人とも黙りこんだ。正枝はその時、不思議に尺八のことを思いだした。
「尺八がかかっていましたね。どうしてあんなところに下げとくんですか。」
 李は俄に顔を輝かした。――李がまだ朝鮮にいた頃、その地に、日本人の専売局の役人がいて、その人が始終尺八を吹いていた。李は大変その「竹の笛」に心惹かれた。ところがその人が、或る時虎狩りに山奥
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