掛に急行し、二日間は雨天のため酒で過し、次で夜中に出立して浅間に登った。まだ夜明け前に噴火口を覗き、雲海の上の日の出を迎え、更に噴火口の縁に長時間佇み、別所は全く「噴火口の中に没入し」、李も同様、あの端正荘厳な噴火口に魅惑され、二人はひそやかに「天上的な言葉を囁き交し」、それから浅間をかけ下りた。危険だが追分口の近道を取り、山麓の森林中で道に迷い、山蟻の巣を蹴散らし、「山蟻を全身に浴び」ながら、沓掛に出で、軽井沢まで自動車を走らせて、食事をし土産物を買い、夜中に汽車に乗った。「異常な興奮に」殆んど眠らず、金が無くなったので何にも食えず、「懐中は空虚で心意は充溢」して、戻ってきたのである。別所とは上野駅で別れた……。
そんな話を、正枝は半ば楽しく聞き取った。
「まるで小説のようですね。」
「小説以上です。」と李は真面目に云った。
「だけど、ふだんあれほど云っといたんですから、これからは、家を空ける時は断らなけりゃいけませんよ。」
「そうです。それが、家にいる時はよく分っていますが、外に出ると、忘れてしまいます。」
「忘れるなんて……。」
「忘れるんです。ばかです、僕は。」
李は拳で頭を二つ三つ叩いた。そしてふいに、眼をしばたたいた。
「おばさんは、こんどのこと、僕を叱りますか。」
正枝は苦笑した。
「叱るにも価しないんですか。」
正枝は眼を丸くした。李は涙ぐんでいた。
「叱って下さい。僕はおばさんに軽蔑されるのが一番悲しいんです。」
李がほろりと涙をこぼしたので、正枝は度を失った。あれからどんなに心配したか、江原さんも二人のことをどんなに心配したか、それを云ってきかせ、更に、李の室を無断でいろいろ検べたりして悪かったと、そんなことまで打明けた。
「ほんとですか。」と李は叫んだ。「そんなら嬉しいです。おばさんなら、どんなに室の中をひっかき廻されても、ちっとも構いません。世の中に、母親みたいな人は、たった一人きりありません。」
そこで、二人とも黙りこんだ。正枝はその時、不思議に尺八のことを思いだした。
「尺八がかかっていましたね。どうしてあんなところに下げとくんですか。」
李は俄に顔を輝かした。――李がまだ朝鮮にいた頃、その地に、日本人の専売局の役人がいて、その人が始終尺八を吹いていた。李は大変その「竹の笛」に心惹かれた。ところがその人が、或る時虎狩りに山奥
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