まんまの顔付で、涙がはらはらと出てくるんです。それをあたし、またかと思って、ハンカチで拭いてやりましたが、村尾さんは初めて自分の涙に気がついたように、身を引いて、袂をさぐっています。ハンカチがありません。あたしのハンカチをとって、眼をふいて、もう笑っていました。あたしは、その時はっとしました。作さんが拾ったというハンカチのことを思いだしたんです。そのつまらないきっかけから、いやにまじめなものが頭のおくに眼をさましてきて、何やかやくわしく知りたくなりました。家のこと、女中さんのこと、会社のこと、お友達のこと、そして何よりもお金のこと……。だけどもう村尾さんは、何にも興味がなさそうに、あたしの云うことなんか耳にもとめずに、小唄をくちずさんだりして、投げやりな浮いた眼付をしているんです。僕もこれで、無理なこともしてきたし、さんざん苦労もしたし、一人前の男になったものだと、ひとごとのように云うんです。あたし何だかなさけなくなって、やたらに酒をのんでやりました。
 そうしたところへ、電話でした。もう十一時半頃でしたでしょうか。日頃ひいきになってるかたのお座敷だったので、何の気もなく受けて、戻ってくると、村尾さんはしらけた顔で、笑いながら神経質に、お座敷だろうから帰るよと、すぐに立上ろうとなさるんです。あたしはなおなさけなくなって、ほんとに涙ぐんで、さんざんだだをこねてやりました。今晩はどうしたって帰さない、ちょっとで貰えるお座敷だから、待っていて下さらなけりゃ承知しない、たって帰ると仰言るなら、断ってしまって側についてる、とそんなことを云ってるうちに、村尾さんの、ぞっとするほど冷い眼にぶっつかりました。あたしにはよく分っています。断るなら初めから断ったらいいと、そういう意味でしょうが、あたしにしてみれば、夜遅く、中貰いに一寸でもというお座敷へは、顔を出しておかないと、肩身がせまいというわけもあって……そんなことを考えていると、もう芸者も嫌だし、世の中も嫌だと、投げやりな気持になって、村尾さんをむりに引止める力もなくなりました。そして酔ったふりをして、半分はほんとに酔って、つっぷしながら、村尾さんのあぶなっかしい足音をぼんやり聞きながしました。
 それでも、きっとまた戻っていらっしゃるにちがいない、と心待ちにして、立上りもしないでいると、おのぶさんがやって来て、けんかでもしたの
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング