だった。作さんは、その男とすれちがってから、あとで何だか気になり、暫くして戻ってきてみると、やっぱりそうなので、ふと耳にはさんだあたしの話を思いだし、こいつかなと思ったのでした。黒いマントをすっぽりときて、黒い帽子をふかくかぶって、それほど寒くもないのに、襟巻で頬をつつんでるんだそうです。この野郎と、つかまえるつもりで、作さんが向っていくと、先方では早くも気がついて、つと横町へ切れこんだかと思うまに、歩いてるのか駆けだしてるのか、足音もさせないで、それが風のような早さで、消えてなくなってしまったのでした。だけど、あわてたとみえて、ハンカチを落していった。もし心当りの人でもあるといけないから、ないしょで知らせるんだといって、作さんは、使いふるした皺くちゃなハンカチを差出しました。ふつうの安物のハンカチで、そんなものに見覚えのあろう筈はなく、またこの剽軽《ひょうきん》な年よりの作さんが、何を云うことやら、あたしはよくも尋ねないで、ただお礼をいって、当分ないしょにしといて頂戴とたのんで、少しばかり心附をやりました。
 それが、朝のうちは何でもなかったが、おひるからさむざむと空が曇って、夕方になると、へんに気になりだし、泣きたいような心持になって、ついふらふらと、村尾さんに速達の葉書をだしてしまいました。そして安心してると、九時頃、喜久本からかかってきました。村尾さんです。
 あたし、とても淋しいような、また浮々とした気持で、急いでいきますと、村尾さんはどこで飲んできたのか、もうだいぶ酔ってるじゃありませんか。それでいて、きちんと坐って、片手で火鉢のふちをさすりながら、何の話かって、いきなりそうなんでしょう。ただ、お逢いしたかったの、と笑ってみせましたが、あたしもぐいぐい飲んでやりました。何のために速達なんかで呼びだしたのか、自分でも分らなかった上に、村尾さんの痩せた蒼白い頬が、きつく引緊って、冷い眼があたしを見据えてるんです。すり寄って、甘ったれてやりましたけれど、村尾さんは姿勢をくずしません。あたしの指先をいじりながら、君とももう別れなければならないかも知れないけれど、しっかりしていっておくれ、それが僕の頼みだと、いやにまじめなんでしょう。それがどうも調子っぱずれなので、あたしは微笑んで、やたらにいやいやをしてると、ふいに、村尾さんの眼から、涙が流れだしました。ふだんの
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