あったらしく、そしてその孤独を守るために、市木さんはあらゆる交渉や関係を断ち切ろうとしてるらしく、私には推定された。
然し、その時受けた私の印象からすれば、市木さんは自分の考えを私に訴えることよりも、寧ろ、無意識的にせよ、私になにか教訓を垂れるつもりだったようでもある。私の錯覚だったろうか。
夕陽を眺めながら、渦巻の話をし、そして二人は立ち上った。途中は黙々として、そのまま別れた。
ところが、それからまだ大して経たないうちに、困ったことになった。
近所の一区劃だけ合同して、便所を水洗式に改造しようとの議が起った。これは当局からも奨励されたことであり、某請負人が奉仕的に事に当るとの由だった。この奉仕的というのについては、陰に或る不正が存在するとの噂もないではなかったが、まあだいたい衆議はまとまりかけた。表の大きな街路には下水道が完成していたから、それに通ずる土管を地下に設ければよかった。一区劃といっても、二十戸ばかりのもので、そして小さな家が多かったから、費用は一戸当り六千円から一万五千円程度でよかった。ただ住宅所有者や借家居住者が入り交っており、同居人もあり、借家の家主もまちまちだったので、費用は各戸の世帯主が負担するという立前になった。それについては、区劃内に比較的大きな家屋を持っていて、費用も別格となっている平野さんから、一時払いに難渋なひとには、金を立替えておくから月賦で返済して貰えばよいと、好意ある申し出があった。
それで、だいたいきまりかけたが、故障が一つあった。市木さんが承諾しなかったのである。最初から不服なので、後廻しにしたのだが、やはり承諾しなかった。嫌だという一言の返事だけで、相談のしようもなかった。もっとも、その一軒だけを飛ばして工事することも出来たが、折角足並の揃いかけたところだし、全部まとまるものならまとめたかったし、また、その一例によって、不服を言い出す者が他に出て来ないとも限らなかった。
そのことのため、近所の世話役とも言える人柄の竹田さんが、私のところへ頼みに来た。
「市木さんと懇意なのは、まあ、近所であなた一人だし、なんとか骨折ってみて下さいませんでしょうか。」
便所改造のことについては、私も承諾者の一人だったし、市木さんが不承知の旨も薄々は聞いていた。然し、市木さんを説得することは無理なような気がした。私は断りたかった。それを押っ被せるように、竹田さんは余事をべらべら饒舌り立て、私の返事も待たず※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々に帰って行った。
私は仕方なく、まあ一度は市木さんに話してみることにした。
例の竹垣を跨ぎ越して、市木さんのところに行き、声をかけてみると、二階から返事があった。これはいけない、今は誰にも逢いたくないと言われるのかな、と思っていると、市木さんは二階から顔を出して、構わないから上りなさいとの言葉だった。
弘子さんの葬式の前後、私は二階へ通ったこともあるし、勝手は知っていた。
縁側から上ってゆき、ちらと眼をやると、座敷には布団が敷いてあった。少しく軋る階段を上ってゆくと、二階の室にも布団が敷いてあった。市木さんはそこの縁側に足を投げ出して足首を揉んでいた。傍には繃帯が散らかっていた。
「どうかなすったんですか。」
「なあに、足首をちょっと捻挫しましてね。」
市木さんは足首を丹念に揉み、それからイヒチオールを塗り、油紙をあてて繃帯をした。
その間、私は煙草をふかしながら、室内をぼんやり眺めた。葬式の時と少しも変っていなかった。壁には木炭や鉛筆の風景スケッチが幾枚か鋲でとめられていた。中型の書棚には書物が並んでいて、物理や幾何や天文などに関する本と、哲学の本や童話の本が、妙な取り合せで並んでいた。大きな机には、大判の罫紙や白紙が積み重っていて、さまざまな線が縦横に引かれており、たぶん市木さんの特殊な研究用のものだろうが、何の研究だかは私には分らなかった。市木さんの不干渉主義とでも言えるものに、私はいくらか感染していたわけではないが、少くとも市木さんに向っては、何の研究ですかなどとは尋ね難く、市木さんの方でも黙っているのだった。
市木さんは足首の手当をすますと、そこらを丁寧に片付けて、私にウイスキーを勧め、自分でも飲んだ。
「足が不自由なものですから、肴は何もありませんよ。」
「いえ、結構です。でも、御不自由でしょう。」
「なあに大したことはありません。寝たり起きたり、ぶらぶらしておりますよ。面白いことには、昼間は二階に寝てる方が気持がいいし、夜分は下に寝てる方が気持ちがいいし、へんなものですなあ。」
そんな話をしながら、私はまた、先般の竹垣の件と同様、水洗便所の件も早く片付けたくなった。どうも、何か用件を持っていると、それを片付けないうち
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