は、市木さん相手には落着けないのだった。先方があまり落着きすぎてるせいかも知れなかった。
 私は率直に、竹田さんから頼まれたことを話し、水洗便所の件を切り出した。市木さんはちらと眉根を寄せてから、事もなげに言った。
「あれはいけませんな。日本の電燈は、停電するように出来ている。日本の水道は、断水するように出来ている。日本の道路は、躓いて転ぶように出来ている。だから、わたしのこの足のような始末です。水洗便所の不始末は、足首と違って、手がつけられませんからな。だから、わたしは断りましたよ。」
 市木さんの意向こそ、決定的で、手がつけられない感じだった。私はそれで役目を果したつもりで、二度と話し出さないことにした。
 しばし間を置いて、市木さんはふいに言った。
「いったい、ひとの家のことをあれこれ干渉する根性がいけませんよ。こんど竹田さんが来たら、そう言ってやりましょう。」
 そういう点になると、私はなお自分の意見を持ち出しかねた。実は、市木さんの足の捻挫を知った時、妻に煮物でもさせて持って行かせようかと咄嗟に思ったのだが、それも余計な干渉だと言って怒られそうな気がした。
 私は市木さんの孤独主義に感嘆しながら、眼の前に投げ出されてるその足先を痛ましく眺めた。繃帯ごしに見ても、だいぶ大きく脹れ上ってるのが分った、ばかりでなく、脛のあたりにもなんだか軽い浮腫があるようにも思えた。
 市木さんはウイスキーのグラスを挙げながら、私の視線に気付いたらしく、脛を叩いた。
「少し浮腫もあるでしょう。腎臓がわるいのかも知れませんな。」
「医者にお診せなすったんですか。」
「いや、医者なんか役に立ちはしませんよ。癒るものなら、しぜんに癒るし、癒らないものなら、しぜんに死ぬだけのことですからな。」
 むちゃな理窟ではあるが、然し、市木さんにとってはそれが信念にまでなってるらしかった。だから、腎臓がわるいかも知れないと思っても、ウイスキーなんか平気で飲めたのであろう。酒の相手など長くしていてはいけないと思って、私は程よく辞し去った。市木さんは引留めはしなかったが、びっこひきながら、階段を降りて下の縁側まで見送ってくれた。
 私は暗い気持ちになった。
 然し、その気持ちもやがて晴れた。一ヶ月ばかり経つと、市木さんの足の捻挫はすっかり回癒し、腎臓の故障もなかったらしく、以前の通り元気になった。

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