饒舌ることをあまり持たないし、上唇に比べて厚ぼったい下唇のその口付が、饒舌るのにふさわしくないのだ。そして無言のうちに、たいていはうっとりと微笑んでいる。つまり、夢みてるような大きな眼眸が、微笑む以外の表情技巧を知らないのだ。――その清子になら、私はいつ如何なる所ででも、安んじて、甘えかかっていったろう。
久子に対しては、私は甘えられなかった。
あの後で、久子は私の胸に顔を埋めて言った。
「わたくし、長い間、先生の愛をお待ちしておりましたの。」
たといそれが嘘ではなかったとしても、真実の愛のあるところには、そのような言葉が口から出るものではあるまい。――彼女の「わたくし」がいつしか「あたし」に変ってくると、彼女はそれとなく結婚を要求するようになった。
彼女はアパートに一人で住んでいる。近くに親戚の家があるのだが、その人達とは気分が合わないし、同居人が一杯いて室の余裕もない。ところが、アパートの方は、他に転売されて何かの寮になるらしい噂がある。そうなったら、住宅不足の折柄、他に貸室を見つけるのも容易でない。何かにつけて苛ら苛らすることばかりだ。もう今年あたり、結婚生活にはいろうと思うけれど……と彼女は言う。
「それもいいでしょう。」と私は何気ない風で答える。
さすがに彼女は、先生と結婚したいとは言わない。私の方でも、僕と結婚しましょうかとは、冗談にも断じて言わない。――親戚やアパートについての彼女の話の、真偽のほどが問題ではないのだ。また、彼女は既に処女ではなかったが、その彼女の過去の情事が問題ではないのだ。そのようなことは私にとって、穿鑿するほどの価値を持たない。ただ、結婚というものは女にとって、生涯に一度は必要な生活形式であるかも知れないが、男にとっては必ずしもそうでない。現在の如き社会では、結婚によって女は一種の自立性を獲得するが、男は、少くとも私は、自立性を乱されそうだ。
――清子とならば、私は進んで結婚するだろう。清子は私の自立性を乱さないばかりか、却ってそれを助長してくれるだろう。つまり、彼女はそういう性格の女なのだ。否、このようなことを言うのでさえ、彼女にはふさわしくない。私は彼女と逢うことを恐れる。一度遇えば、もう瞬時も離れ難くなるだろうから。何物も要求せず、ただにこやかに微笑んでるだけの彼女は、私の孤独圏を甘美なものにしてくれるだろう。
私は自己の孤独圏を確保したい。そこへだけは、何物にも踏み込ませたくない。そここそ、私の思念の聖域なのだ。
晩年の別所のことを私は思い出す。彼は文学者で、逞ましい作家だった。客と対談しながら、さらさらと原稿を書いた。私が遊びに行くと、如何に忙しい仕事の最中でも、決して嫌な顔をせず、書斎に招じた。そして一方では私と歓談しながら、一方では原稿を書いた。新聞雑誌の編輯者や其他の訪客が来ても、適当な応接をしながら、原稿を書いた。それもでたらめな原稿ではなかった。時々眉根を寄せて考えこんだが、客に向ってはにやりと笑った。その、さらさらと走るペン先と、一枚ずつめくられてゆく原稿紙とを、私は不思議な気持ちで眺めたものだ。こちらが黙っていると、彼の方から話しかけて来た。私は彼を、精神分裂症ではないかと疑ったほどだ。
その彼が、晩年、というのはつまり死去の少し前、あまり人に逢いたがらなかった。人前では決して仕事をせず、仕事をしていない時でも訪客を嫌った。外出することも少くなった。或る時、非常な重大事でも打明けるような調子で私に言った。
「孤独を味いたくなったんだ。少し遅すぎるかも知れないがね。」
それからちょっと間を置いて、また言った。
「孤独の底に沈んでみたいんだ。」
深い絶望か或は高邁な理念か、どちらに彼が捉えられたかを、私は知らない。いや、そういうものに捉えられたのでも恐らくなかろう。――其後一年ほどして彼は急逝した。
その別所のことが、へんに気にかかってくる。私の孤独圏というのは、別所の所謂孤独とは異質のものかも知れない。精神の周囲と言ってもよし、精神の内部と言ってもよいが、そこの僅かな空間のことで、それは絶対に私一人だけのものであり、決して他人の窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]を許さないものであり、私の独自性の根源なのだ。僅かな空間ではあるが、上下には無限に高く無限に深い。――それに私はいつとなく突き当ったのだ。私が自分を病気ではないかと思うのも、別所のことからの類推かも知れない。
私はまた夢をみた。――満々たる水面に、大きな渦が巻いている。渦は急激で、中心は深い穴となって吸いこんでいる。二筋の藁屑と一枚の木の葉とが、ゆるやかに旋回しながら中心に近寄ってゆき、やがて急に吸いこまれてしまった。あとには何もなく、ただ中心の深い穴だけだ。それが多少大きさを変えながら、音を立てて、無限の底へと巻きこんでいる。ただそれだけだ。
それが、眼を開いても、眼底に残っている。見ようと思えば、すぐに現前してくる。
その渦は、私の孤独の寂寥さだ。絶え難い寂寥だが、何物にも代え難く貴い。それを乱す一切のものを、私は憎悪し忌避する。――久子ともし結婚すれば、久子はそれを乱すだろう。久子ばかりでない……。
私は今、空襲のために罹災して、大きな家屋の一翼に住んでいる。母屋の方には二家族がいる。その一つの西岡が、家の所有者の親戚で、全体を監理している。この西岡の夫人が、私にしばしば結婚をすすめて、候補者という令嬢の写真を幾枚も見せた。私が笑って取り合わなくても、彼女は写真を置いてゆく。私はそれを一日だけ預って、翌日には返すことにしている。写真など、どうせ実物より良いか悪いかどちらかだ。私はろくに見もしない。
――もしも、清子の写真があったら、朝となく夜となく、私は眺め暮すだろう。机上に飾っておくだろう。彼女の写真は実物そっくりに違いない。つまり、実物とは違った写真が出来ないような、そういう彼女なのだ。
一日おいて写真を返すと、西岡夫人は感心したように言う。
「これもいけませんか。そうですかねえ。」
そしてまた暫くすると別な写真だ。――世の中には、結婚可能な男もずいぶんいるが、結婚可能な女は更に多いらしい。然し西岡夫人はそんなことは言わない。脂肪の多い頬に窮屈そうな笑みを浮べて、眼だけが真面目に私を直視する。
「あなたも早く結婚なさらないと、しまいにはしそこなってしまいますよ。わたしの知ってるかたで、あれこれと選り好みばかりなさった揚句、とうとう、女中さんと結婚なさったのがありますよ。」
「ところが、私のところには、婆やきりいませんよ。」
「まったく、あの婆やさんは感心ですね。無口で、忠実で、よく働いて……。」
そんな調子だから、私は西岡夫人と話すのは嫌ではない。結婚の話も、さらりとしてるから苦にはならない。
然し、結婚という言葉は、抽象的なものではない。私の脳裡には、長火鉢の前に妻たるものが大きな臀を据えてる情景が、はっきり映ってくる。それが私の孤独圏を圧迫し縮小させるのだ。
久子は私のところに来ると、長火鉢の前にも平気で坐る。そして何故か、眉根に深い縦皺を寄せて、一度は必ず火鉢の中を覗き込む。それだけで、火箸とか灰ならしとかを手に取ることはない。もっとも、夏のこととて火は入れてないのだ。――或る時、彼女はやはり火鉢の中を覗きこんだが、ふいに、くすりと笑った。それから私の方を、黒い瞳でじっと見た。
「先生は、夫婦喧嘩なんか決してなさらないかたね。」
私は微笑したものだ。大事な事柄らしい話には微笑することにきめている。
「夫婦喧嘩だってするかも知れないよ。妻がないからしないだけで……。」
「いいえ、なさらないわ。女を軽蔑していらっしゃるから。」
「尊敬してるんだよ。」
そんなことを彼女はもう信じはしない。そして、尾形さんは女を尊敬しているが、あまり尊敬しておかしなことがあったと言う。
「たいへん不機嫌だから、なんだと思ったら、夫婦喧嘩をなすったんですって。」
尾形というのは、研究所の私の仲間なのだ。――田舎の友人から鶏卵をたくさん貰った。それで尾形は、オムレツでも拵えさせようと思いついて、牛肉のこま切れを買って帰った。ところがあとで、奥さんが言うに、この節は牛も食い物が悪いと見えて、肉に脂が殆んどのっていないらしい。皿物にあまり脂がつかないし、ちょっと水で洗っただけで、きれいに落ちてしまう。いったいお値段はいかほどでしたの、と聞くから、正直に、百匁七十円だったと答えた。すると、奥さんは眉をしかめて、それじゃあ、犬の肉だったに違いないと言う。ごまかしなすったのねという。尾形は少し酔っていたものだから、ばかなことを言うなと怒鳴った。肉屋はごまかしたかも知れないが、俺はごまかしなどはしない。いいえ、ごまかしなすったのよ。そんなことから喧嘩になって、尾形は食卓を拳固で殴りつけ、長火鉢にかかってた鉄瓶を引っくり返して、灰かぐらを立ててしまった。そして奥さんとは翌朝まで口を利かず、ぷりぷり怒って研究所に出て来たが、とても不機嫌だった。
「先生は女なんかばかにしていらっしゃるから、決してお怒りにならないのよ。」
そうなると、私の微笑は苦笑に変るのだが、それも中途で凍りついてしまう。――私は妙な印象を受けたのだ。そこに坐ってる久子の体が、千鈞の重みに見える。夫婦喧嘩などに成算は持てない。彼女はその時和服を着ていたが、臀部は臼を据えたように小揺ぎもなく、帯や細紐でしめあげた腰の下に、腹部がまるみをもって盛り上っている。その肉体に、私は妥協し譲歩したではないか。
打明けて言えば、初めのうち、閨の中で、私と彼女とは気が合わなかった。私はともすると、うふふと笑った。彼女はしばしば焦れた。焦れては、私の胸を叩き腕をつねった。それが、後には、しっくり気が合うようになった。私の方から、それをつとめて、妥協したのだ。いや、女の肉体が私の肉体を征服したのだ。――男女の関係とは、そのようなものだと私は思う。殊に夫婦の関係ではそうであろう。男の方から調子を合せてゆくのだ。そして自主性を失うのだ。
――清子だったら、そんなばかなことはないだろう。いや、このようなことを言うのさえ、彼女を汚すことになる。そのような彼女なのだ。
私が打ち拉がれた気持ちに沈んでいると、久子は突然立ち上った。そして縁側へ、つかつかと出て行き、柱に片手をかけて、庭の方を見やった。――キキキというような甲高い笑い声がして、少年が彼方へ立ち去ってゆく。西岡とは別な家庭の保倉の息子だ。
保倉の息子も、私の孤独圏を乱すものの一つだ。罹災して危く死にかかるところを、ふしぎに助かったのだとか。片方の頬から肩へかけて火傷の痕がある。――彼が狂人だかどうだか私は知らない。十五六歳の普通の体格だが、へんに首が短く猫背で、頭は後頭部が扁平で大きい。裾短かな単衣を着て、庭の中をいつもうろついている。鍵の手になった建物をおぶってる恰好の広い庭で、植込も多く、真中が竹垣で仕切られている。そこを彼は、猫背で鼻先をつきだしてる様子で、用もなくぶらついている。出逢っても、顔を挙げて正視することなく、ちらと一瞥するだけで眼を外らしてしまう。その一瞥が、相手の秘密までも見通してしまうような視線だ。
彼はしばしば、私の室の縁側近くまでも忍び寄って来て、室の中をじろりと眺め、縁側に沿ってぶらついては、また室の中をじろりと眺める。私か婆やかが、そこへ、彼の眼の前に、ふいに出て行くと、彼はキキキと変な笑い声を立てて、彼方へ立ち去ってゆく。それでも彼は唖者ではない。甲高い声で早口で、家人たちに口を利いてることがある。家人以外の者には殆んど口を利かないだけのことだ。いくらか低能だとの噂だが、私にはむしろ狂人に近く見える。
この保倉の息子は、いつも私の神経にさわり、私の孤独圏の安定を脅かすのだ。気にするほどのものではないと知りつつも、縁側近くをうろつかれると、何かを探偵されてるようで、不気味だ。夜分にその姿を見かけることはないが、然し時
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