んだ。」
 私の眼から涙が流れてくる。私は横向きに枕を抱くようにして、両袖で顔を蔽う。――尾形が、それから久子が、私に何か言ったり、互に囁き合ったりしてるようだ。私は何物にも耳をかさず、何物も見ないのだ。
 夢のように、然し明瞭に、台風の中心みたいなものが現われる。そこは真空だ。私はその中に身を置く。底知れぬ寂寥が私の上に蔽い被さってくる。泣ききれぬほどの嬉しい哀愁だ。そして真空なのだ。真空は満たされねばならない。それを満たすために、清子の姿が立ち現われる。真空の中に、それは自然と出現する。――私は眼を開く。そこには誰もいない。尾形も久子も帰っていったらしい。婆やもいない。ただ私一人だ。もう清子もいない。清子は果して実在の人間だろうか。そうだ、私にとっては架空のものではない。――私は箱枕に後頭部を押しつけ、仰向けに体を伸して、瞼を閉じる。蝉の声がちょっと聞えて、あとはしんしんと、寂寥の聖域だ。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「群像」
   1947(昭和22)年1
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