折、闇の中に、彼の気配を錯覚することがある。
「なんとか、こちらへ来ないようにして貰いたいもんだね。」と私は婆やに言う。
 婆やは澄ましたものだ。
「あの子は馬鹿でございますよ。馬鹿ですから、閉じ籠めておくことも出来ませんのでしょう。」
 その馬鹿が、薪を割ったり、お釜の下を燃やしたり、ちょっとした使い走りをしたりして、家の者にはいくらか役に立っているらしい。
 私は時々ばかばかしくなる。彼から嘲笑されてるような気にもなる。然しそんな下らないことが、下らないことであるだけに却って、私の神経にさわるのだ。それでも我慢しているより外はない。もし怒鳴りつけでもしたら、私は一層惨めになるだろう。
 ――清子は、この保倉の息子を、婆やのように無視するのではなく、やさしくそして平然と眺めることだろう。存在する凡てのものを、ありのままの姿でいたわり眺める、そういう彼女なのだ。
 久子はいつも、保倉の息子の気配を感ずると、挑戦するように飛び出してゆく。そして彼が逃げてゆくと、それについては何も言わずに、他のことを言う。
「あら、百日紅がきれいに咲いてるわ。紅と白と……。少し頂けないかしら。清田のおばさ
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