饒舌ることをあまり持たないし、上唇に比べて厚ぼったい下唇のその口付が、饒舌るのにふさわしくないのだ。そして無言のうちに、たいていはうっとりと微笑んでいる。つまり、夢みてるような大きな眼眸が、微笑む以外の表情技巧を知らないのだ。――その清子になら、私はいつ如何なる所ででも、安んじて、甘えかかっていったろう。
久子に対しては、私は甘えられなかった。
あの後で、久子は私の胸に顔を埋めて言った。
「わたくし、長い間、先生の愛をお待ちしておりましたの。」
たといそれが嘘ではなかったとしても、真実の愛のあるところには、そのような言葉が口から出るものではあるまい。――彼女の「わたくし」がいつしか「あたし」に変ってくると、彼女はそれとなく結婚を要求するようになった。
彼女はアパートに一人で住んでいる。近くに親戚の家があるのだが、その人達とは気分が合わないし、同居人が一杯いて室の余裕もない。ところが、アパートの方は、他に転売されて何かの寮になるらしい噂がある。そうなったら、住宅不足の折柄、他に貸室を見つけるのも容易でない。何かにつけて苛ら苛らすることばかりだ。もう今年あたり、結婚生活にはいろうと
前へ
次へ
全29ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング