さまの手が、少し伸びてきた。細そりした、然し骨ばってもいない、へんに冷たいその手を、久子は両の掌の中に捉えた。
時がたった。
「久子さん……。」
「おばさま……。」
「手を握っていて。」
「ええ、しっかり握っていますよ。」
久子は両の掌に力をこめた。
そのまま時がたった。
最後の苦悶の時も、それは大した苦悶ではなかったが、久子はおばさまの手を離さなかった。
その清田のおばさまのことが、折にふれて久子の心に蘇ってくるのだ。私は初め、それについて異様な印象を受けた。眼鏡をかけたまま愛人とキスする久子、研究所の助手として時代思潮の先端にも触れてる筈の久子、それから、清田のおばさまと愛し合ってる久子、それらがなにか渾然としていないのだ。然し、洋装の久子と和服姿の久子とは、やはり同一人なのだ。彼女はいつも、濃い肌色の白粉をつけ、濃いめに口紅をつけている。私は最初、彼女の小麦色の頬と黒い瞳とに向って、口紅をぬったその唇にキスした。――固より、大抵の場合の通り、偶然の機縁もあった。
夕方、丁度彼女と二人きりで、研究所の窓から空を見ていた。五十歳近い私と三十歳過ぎの彼女と、そういう男女でも、青年男女のように、一緒に窓から外を眺めることもあるものだ。その時、二羽の白鷺が都会の上空を飛んで行った。西空に雲がかけていて斜陽はないが、上空は明るく、白鷺の大きな翼の柔かい白色がへんに淋しく見える。その二羽が少しく斜めに打ち揃って、僅かな間隔を常に乱さず、真直に飛んで行った。その姿が見えなくなってから、ちょっと間を置いて、私たちはキスした。――もしあの二羽の白鷺が飛ばなかったならば、或はそれを眺めなかったならば、私たちは、永久にキスしなかったかも知れない。
偶然の機縁を、私は軽蔑するのではない。然し、これがもし清子だったならば、そのようなものは全然不要だったろう。
――清子、それは清田のおばさまの名前でもなければ、清田の清に関係があるのでもない。全く別なものだ、どうして清子という名であるかも、私は知らない。夢の中にはっきりと、淵の中の巌が見え、古い大木が見え、崖ふちの道が見え、それらに相応する人間が見え、また呪文めいた言葉が聞える、そのような工合に、彼女は清子なのだ。――清子はいつも縞物の和服を着ている。つまり、縞物の和服にふさわしい容姿なのだ。彼女はあまり饒舌らない、つまり、
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