てばかりいらっしゃるのね。いいわ、あたしもどうでもいいの。御病気がひどくでもなったら、もう側を離れやしないから……。」
彼女は突然、捨鉢にしんみりとなって、涙さえ浮べてるらしい。そうなると、眼鏡だけがへんに目立ってくる。眼鏡は、殊に女の眼鏡は、全くへんなものだ。相手に涙を見せたい時には、せめて眼鏡を外すべきだろう。キスする時にだって眼鏡を外すのが女のたしなみではないか。現代の女性はそんなことには無頓着だ。――それでも、私は彼女の肩に手をかけ、眼鏡のままの彼女にキスしてやった、私自身も眼鏡をかけたままで。
彼女はその眼鏡の奥の黒い瞳で、じっと私の眼を見入ってくる。
「あたし、先生より先に死にたい。死ぬ時は、あたしの手をしっかり握っててね。それだけ誓って。」
「それは、誓ってもいい。将来のことは何も誓わないのが僕の主義だけれど……。」
私は真面目に答えた。彼女の感情を尊重してのことだ。――どちらが先に死ぬか、死に際がどうか、そんなことではないのだ。清田のおばさまのことが、彼女の心にまた現前してきたのである。
清田のおばさまを、私は直接には識らない。久子から聞いただけのことだ。――天成の麗質で、典型的な美人だったらしい。若くて夫に死なれ、その未亡人生活には幾人かの男性が点綴されたらしい。だがそれは畢竟、愛情の問題ではなく、富裕な美しい未亡人の火遊びに過ぎなかったようだ。そして晩年、彼女は久子を熱愛し、久子も彼女を恋い慕った。同性愛を超えた深い情愛だった。清田のおばさまが肺を病んで、鎌倉の海岸に転地してから、二人は始終逢ってるわけにはゆかなくなったが、そのために愛情は一層深まった。久子が訪れてゆくと、おばさまの子供も看護婦も自然と席を外して、二人きりで語り合うことが多かった。臨終の時には、久子は死ぬ思いで馳けつけた。おばさまはもう意識が朦朧としていた。
「おばさま、久子です。久子よ……。」
おばさまは痩せ細って、首が折れそうで、頬が蝋のように白かった。睫毛の長い眼を、ちょっと開きかけて、また閉じた。そして囁くように言った。
「久子さん……。」
「久子よ、お分りになって。」
おばさまの喉のところで、へんな音がした。それからひっそりとなった。暫くたって、囁くような声がした。
「久子さん……。」
「ここにいますよ。おばさま、お分りになって。」
「手を握って。」
おば
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