がした。
そしてそれが極度に聖《せい》であった。私は眼を瞑った。
家に着くと、私は堯を抱いたまま芳子の室に通った。赤ん坊の顔に私は一番に眼を落した。
私は全身に震えながら芳子の眼と見合した。芳子の緊張した視線が私の胸を刺した。
「何時に?」と芳子は云った。
「一時四十五分!」と私は答えた。
私は堯を芳子の所へ抱いて行ってやった。芳子は寝ながら、堯を抱き取った。顔の白布を取ってじっとその顔を見た。微笑んだ生きた顔が其処にあった。それから、胸に組み合した小さな両手を見た時、芳子は急に堯を抱せしめた。歯をくいしばって涙をはらはらと流した。
「坊や、坊や!」と芳子は云った。「なぜお母さんが居るうちに死ななかったの! 坊や、坊や!」
私はその側に坐って、芳子の肩を捉えた。そしてその涙にぬれた顔を私の方へ向けさした。私はその眼の中を覗き込んだ。
「堯は僕達の所へ帰って来たんだ!」と私は云った。
芳子は首肯いた。
私は堯をまた抱き取った。
A氏やR叔父などがやって来た。私は皆を次の室へ通さして、間の唐紙をしめた。常に蒲団を敷かした。そして堯を抱いたまま私はその蒲団の中にはいった。赤ん坊は室の真中に小さな蒲団を敷いて眠っていた。その向うに芳子は寝たまま顔を枕に押しあてた。
私は堯を抱きしめた。その冷たい額にまた唇を押しあてた。怪しい底深い所から来る戦慄が私の全身に伝わった。
暫くして私は、そっと堯を寝かしたまま起き上った。芳子が私の方をじっと見守っていた。そして私達は涙の乾いた緊張した眼を見合った。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「帝国文学」
1918(大正7)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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