ったのであろう。
「お知らせなさる所がありましたら……。」
私はその言葉をその時聞いた。然し私は「いいえ。」と答えた。実は知らすべき親戚や友人が少しあったが、私はその場合に大勢の人が来るのを欲しなかった。出来るなら看護婦やS子さんをも遠ざけたかった。私はただ堯と二人で居たかった。
看護婦は容態表を記入した。
朝――熱九度三分、脈搏百三十四、呼吸五十四。
午――熱九度一分、脈搏百五十四、呼吸五十六。
便二回、嘔気一回、カンフル三回、滋養腸注一回、人乳十瓦二回。
もう殆んどどうにも出来なかった。重苦しいそして盲目な時間が過ぎて行った。一瞬の休止もなく或る大きい力で押し進んでいるものの前に、私の叫びや意力が如何に小さかったか。然しそれも凡て私のものではないか。
T氏も回診して来られた。
「どうも仕方がありませんね。」と云われた。
一時に、特にU氏が見舞って来られた。私はもう何とも云わなかった。U氏も黙って居られた。私達はただ低くお辞儀をした。
私は堯の喘ぐような呼吸をじっと見ていた。「坊《ぼん》ちゃん坊《ぼん》ちゃん!」と私は心の中で云った。それは堯が生れて間もない頃私がいつも呼んだ言葉だった。それから私はまた暫くして、「堯、堯!」と心の中でくり返した。私の心の中で、堯が遠くへ遠くへ私から離れてゆくような気がした。私は堯の手をじっと握っていた。もう私のうちには、希望も絶望も無かった。身体の内部がじりじりと汗ばんで来た。
附添看護婦が立ってゆくと、医員と看護婦長とがはいって来た。
「もう最期です。」と医員は云った。
私には分らなかった。唇をかみしめた。
暫くすると、喘ぐような堯の息が一つ長く引いた。とぷつりと呼吸が止ってしまった。じっと見ていると、軽く胸の中でぐぐーという妙な搾るような音がかすかにした。
水のはいった小さいコップに筆が添えて持って来られた。私はそれで堯の唇を。濡してやった。
「お気の毒様で……。」と看護婦が云った。
S子さんが声を立てて泣いた。
云い知れぬものが胸の底からこみ上げて来た。私ははらはらと涙を落した。私はどんなに堯を愛していたことか。そしてどんなに愛し方が足りなかったことか!
その後のことを私は殆んど何にも知らなかった。室の中には、私とS子さんと附添看護婦とだけが残った。堯の顔には白い布が被せられていた。じっと見て
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