一枚一枚数えていった。がいつまでも畳の数がつきなかった。……
「夢を見てるな」という意識が茲で一寸返ってくる。がそのままでぐいぐいと怪しい力で引きずられる。……彼は何時《いつ》の間にか縁側に立って、じっと障子の中を窺っていた。誰も室には居なかった。すると丁度その時、室の中の畳が一枚自然に持ち上って、その下から財布が出て来た。それは先刻の怪しい男の仕業だった。男は身を屈めて財布の中から紙幣を取り出している。……と老婆がじっと屏風の影から隙を狙っていた。「危い!」と思う途端ばさりと音がしてぱっと血が迸った。……その時彼は室の真中にぼんやり立っていた。老婆が傍に斃れている。室の隅の箪笥の上に稲荷様の狐が並んでいる。……妙に何か考え込まれた。そして今すぐに金を返さなければいけなかった。兎に角出かけなければならない。で足を返すと、向うの隅に老婆の顔がげらげらと笑っていた。ふり返ると、其処にまた老婆の顔がげらげらと笑った。……彼はくるくると室の中を廻り初めた。大きい旋風が起ってその禍の中に巻き込まれた。無数の老婆の顔が急速な廻転をなして彼を取巻いた。彼は眼がくらんできて息がつまり気が遠くなった……。
はっと息を吐くと、全身汗にぬれていた。腹巻のあたりが気味悪くねとねとしていたので、そっと両手で風を入れた。そしてそれも夢の中のようであった。電燈の光りが漠然と彼の瞳孔に映じた。そして頭はひとりでに働いて、混沌たる夢幻の跡を追った。
翌朝、朝日の光りを見ると、壮助は急に飛び起きた。台所で顔を洗っていると、お婆さんが声をかけた。
「いつもお早うござんすね。」
彼は何とも答えなかった。そして冷たい水をむやみと頭に浴びせかけた。それから二階の廊下に出て、新鮮な朝の空気を呼吸した。それは彼の毎朝の僅かな努力だった。
然し彼の頭の中には、不安と焦慮とが凝り固っていた。そして彼の前には、惰性に引きずられたる単調なる生活の勤めがあった、礼譲の衣に術策を包んだ卑屈なる同僚と、人種と時代とを異にしたような眼附で彼を眺むる生徒とがあった。そして疲労と倦怠とを担って帰って来る彼は、更に老婆の金の誘惑と、渾沌たる光子の容態と、活動の俗悪なる空気とに迎えられた。
ゆきづまった未来が彼を脅かした。其処《そこ》にはもはや、羽島さんに助けを与えた輝いた力は無かった。貪る眼附を以て彼は自分の周囲を見廻した。そして凶なる陰影に満ちた周囲のうちに、最早一人で立ち得ない自分の心を見た。心のうちには重く濁った雰囲気が澱んでいた。
壮助は殆んど盲目的に、川部に向って手紙を書いた。結果の如何は問う所でなかった。ただそうすることが自分の勤めででもあるかのように。――手紙の中に彼は今迄の事情を述べて、何処《どこ》からか金の融通が出来る途を紹介してくれるように頼んだ。詳しいことは逢って云うが先ず手紙でとりあえず願う旨を附記した。
手紙を出してから、彼はもう凡てのことを投《ほう》り出したような安易を覚えた。そして光子の許《もと》に急いだ。
肉の落ちた眼の大きくなった光子の顔を彼はじっと見つめた。光子の露《あら》わな瞳が彼の視線を吸い込んで、謎のようにぼんやり其処に在った。
「あたしもうすっかりいいような気がするわ。」
と光子は云った。それから何かを探し求めるような風《ふう》で一寸言葉を切ったが、また云った。
「よくなったような気がすると、急に亡くなったお祖母さんのことなんか思い出してよ。」
「よくなったら一緒にお墓詣りをしようね。」
「ええ。」
然し彼女の表情には、淡い混濁したものがあった。彼はそのうちに、彼女の生命の保証を、生きんとする生命の力の微光を探し求めた。
枕頭の病床日誌を取ってみると、その中に挾んである熱と脈搏と呼吸との三色の線の交錯が高低をなして続いていた。
「手を見せてごらん。」
「え、なあに?」そう云って光子は蒲団の外に片手を出した。
壮助はその手首を取ってみた。軽い脈搏が、その中に熱を持っているような血潮の流れが、彼の指頭に感じられた。
「まだ生《い》きる、生きなければいけない!」彼はそう心の中に呟くと、どうしていいか分らないような感情が一杯こみ上げて来た。そして彼女の掌をじっと握りしめた。その掌がかすかに痙攣するように感ずると、彼は自分の上に据えられている露《あら》わな二つの眼を見た。
避けられないものが二人の眼の中に在った。魂がじっと向き合っていた。息をつめたようなものがじりじりと迫ってきた。そして壮助は掴み取らるるような引力を自分の眼附のうちに感ずると、はっと我に返った。
光子は眼を外《そ》らしてぼんやり空間を見つめていた。凡てが静かで動かなかった。そして壮助ははらはらと涙を落とした。
「どうしたの?」
そう云って光子の眼がまた彼の方に向けられた。
「…………」
光子は軽く微笑んだ。ただあるがままの安らかな生命がそのうちに在った。
「彼女に生あらば……、」壮助はそう心の中に叫んだ。「凡てが救わるるであろう。」
然しながら一瞬間の後には、荒凉たる頽廃の感情が彼を待っていた。息づまり杜絶されたような自分の生活が彼の眼の前に在った。
運命が、あらゆるものが、何れかへ、転り出さんとしていた。一度動き出したらもう引止めることは出来そうになかった。凡てが険しい分岐点に立っていた。
夜が暗く、そして凡てのものに不安な予感と鈍い光りとが在った。羽島さんの家政の奥に窺い寄らんとする眼があった。老婆の金を狙っている眼があった。更にまたそれらを担いながら、何物かに引きずられるような重苦しい勤労があった。
翌日壮助は自分の机にもたれながら、困憊《こんぱい》のうちにうとうとと眠るともなく夢幻の境を辿っている時、突然川部の来訪に驚かされた。
川部の興奮したような熱のある顔に接した時、壮助は急に飛び上りたくなった。
「君、あんな手紙を出して許してくれ。」
壮助はじっと自分の心を押えて、頤をつき出しながら友の顔を見守った。
「いや、実は君が心配してるだろうと思ってやって来たんだ。」
「で?」
「金は出来そうだ。僕が今とりかかっている翻訳の原稿料を本屋から前借しようと思って今日行って来た。主任の者が居ないから確かな所は分らないが、多分出来るだろう。」
そう云って川部は眼を伏せて何やら考え込んだ。
「…………」
壮助は言葉では何にも云えなかった。急にぱっと明るい所に出たような気がした。それは一歩前にふみ出されたのであった。凡てのことが顧みられて、はっきり分って来た。
「三百五十円と云ったね。」
「ああ。」
「高利貸の方は一体いくらになっているんだい。」
「借りたのは二百円だが、何やかやで三百円近くになっている。それに此処《ここ》のお婆さんに返すのと、光子の家へも少しは助けたいから。」
「では兎に角三百五十円だけ拵えよう。金なんか、場合に依ってはどうにもならないものだが、またどうにもならない所に融通もきくものだ。……僕が高利貸のうちへ行ってやろう。まけさしてやるんだ。云われるままに取られる奴があるものか。大丈夫だ。そして僕には或る興味もあるんだ。単なる興味で動くのはいけないことだが、そればかりでもないから許してくれ。」
「ああ君のいいように。」
「そして光子さんの病気はどうなんだい。」
「少しはいいようだが……。」
「それはいい。光子さんだけは是非とも助けなけりゃいけない。」
「ああ。」
その時壮助の心のうちに急に或る悲壮な感激が湧いて来た。
「お蔭で僕のやったことが意義あるものになるんだ。僕は自分に他人を助ける力は無かったんだ。僕は自分の力を知らなかった。そして自ら択んだ重荷の下に倒れようとした。もし倒れたら、凡ては罪悪になったろう。僕は光子の家の家計を助くるを善と信じていた。そして善に対する責任を考えなかったんだ。」
「そうだ、それは恐ろしい言葉だ。然し、君のうちにはそうしなければならないものがあったに違いない。そしてよし倒れても、そうした方がよかったかも知れない。」
「ああそれは……。」
そして「よかったのだ」と云おうとして壮助の言葉は急に何物かから遮られた。ぶるぶると身内が震えるのを感じた。大きな力が、涙ぐまるるようなものが、胸の中を塞いだ。
二人《ふたり》は暫く黙って対坐していた。障子を透して麗かな外光が感じられるようだった。川部はその方を見やったが、急に立ち上った。
「では兎に角安心し給え。」
「もう帰るのか。」
「ああ一寸用があるから。ただ心配してるといけないと思って寄ってみたんだから。」
「それでは、どうか宜しく頼む。君のために助かったんだ。……そして一年ばかりのうちにはどうにかなるだろうから。」
「いやそんなことは気にかけないがいい。……然し、もし出来たら返してくれ、実は書物が出来る時一緒に国の母に送ろうと思っていた金なんだから。」
川部は妙に悲しそうに眼を伏せた。
「済まないね。」
「なに、いいんだ。お互のことだから。」
一人《ひとり》になると壮助はじっと机にもたれたまま涙ぐんだ。ほっと自分の前に途が開けたような気がすると共に、それが、凡ての、運命の動きが、何か大変なことになったような気がした。そしてその重い責の下から、溺れる者が水面に浮び出そうとするようにして、光子のことを思った時、彼の眼からは涙がこぼれた。
「光子、光子、ただお前に生があらば、そして自分に、我等に生があらば、凡てはよくなるであろう!」
眼を挙げると、障子には淡い日がさしていた。その日影を見守っていると、遠い野が心に見えて来た。……郊外に家《うち》を持とう、光子の病気のために、生命のために、それは、妻という形式ででも、妹という形式ででも、または他人の形式ででも、そんなことはかまわない。只彼女が生きてさえくれたら……。そして自分は働こう。
壮助は、凡てが光子の生命という一点から発して来たのであることを見た。そして凡てが今またその一点に落ちていった。生命を愛することがそんなにつらいことなのか?……野には樹の梢から、黒い土地から、青い芽が萠え出ている。
壮助は立ち上った。彼の心には、只一筋の細い糸に縋ってじっと震えているような光子の生が映じた。そしてその露わな眼が大きく静かに開かれていた。「光子!」彼はまた心にそう叫んだ。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「文章世界」
1917(大正6)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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