人を馬鹿にしたような態度に壮助は急に苛々《いらいら》してきた。
「もうあんな奴のは皆払ってやるんです。だから……今一寸二十円ばかり貸して貰えませんか。」
「さあ私の所に今お金はありませんがね……。」そう云いかけて彼女は何やら考えていたが、「では一寸調べてみましょう。すぐに持って上りますから、お室で待っていて下さい。」
「ええ、お頼みします。」
壮助はほっとして自分の室に帰った。そして何かぼんやりしていたが、急に彼の眼は本能的に輝いた。――老婆の姿が彼の眼の前に見えて来た。
……或晩遅く彼は便所に立った。そして急に水が飲みたくなったので勝手許の方へ行こうとした。縁側の障子を開けると其処は老婆の室だった。彼女はいつも床のわきに屏風を立てて眠っていた。彼はその側を通りすぎようとすると、床の上に坐っている老婆の姿が屏風の影からふと彼の眼に入った。枕頭の淡い豆ランプの光りが五燭の電燈の薄暗い室にぽつりとついていた。それが第一に異様であった。そしてその側で老婆は手に欝金木綿の袋を掴んで、じっと屏風の影から彼の方を窺っていた。白くなりかけた髪の毛と赤黝い額と低い鼻とが一緒になって、その中から小さい鋭い眼が睥《にら》んでいた。壮助はそれらを一目に見て取った。そして全身にぞーっと冷水を浴びたような気がした。彼は急いで勝手許に行って水を一杯口にすると、そのまままた駈けるようにして自分の室に帰った。
その光景が長く彼を悩ました。彼は下宿を変ろうと思ったが、老婆|一人《ひとり》と小婢《こおんな》と同宿人一人との気兼ねなさと、室が日光《ひあた》りがよくて気に入ったのと、食物《たべもの》のまずい代りに比較的安価なのと、引越の面倒くさいこととのために、そのままになってしまったのであった。そしてその光景もいつしか彼の記憶の中に薄れてしまっていた。
今その光景が彼の頭の中に蘇《よみがえ》って来た。それはかの時とは違った色調を以て浮んでいた。其処には恐怖がなくて或る誘惑があった。壮助は少し左に傾けた首を堅く保ちながら、その光景の中に沈湎していった。
梯子段に老婆の足音が聞えた時、壮助ははっとして我に返った。自分の眼附が熱しているのを彼は内心に感じた。
「津川さん、これだけきり今ありませんから。」
そう云って老婆は彼の前に十五円差出した。
「えこれだけで間に合います。確かに。一週間ばかりしたら出来ますから。」
「いえいつでも宜しいですよ。……ですがね、お金が出来てもすぐに払ってはいけませんよ。私にお任せなさい、すっかり払うなんて馬鹿げていますよ。」
「え、その時はお願いするかも知れません。それでは一寸急ぎますから。」
壮助はそう云って机に向った。自分の方をじろりと見てゆく老婆の視線を背中に感ずるような気がした。
一人になると、彼は急に泣き出したいような感情がこみ上げて来た。凡てが浅間しくそして腹立たしかった。
彼は急いで古谷に手紙を書いた。――五日の晩は急用で後れたこと、金は今奔走中だから暫く待ってくれるようにということ、十五円だけ取り敢えず送るから利息の方へ入れてくれるようにということ。
壮助は手紙と金とを懐にしてそのまま表に飛び出した。郵便局で為替を組んでそれを出すと、初めて一日のことが顧みられた。
空を仰ぐともはや日脚が西に傾いていた。彼は一寸足を止めて、飢えたる犬のようにあたりをじろりと見廻したが、また急に羽島さんの家の方へ歩き出した。そして心の中で、「光子! 光子!」と叫んだ。眼が湿《うる》んできた。
五
怪しい誘惑がいつしか壮助の心に蜘蛛の糸のように絡《から》みついて来た。机に向っていてもふと気をゆるめると、彼の耳はじっと階下の物音に澄されていた。そして彼の眼の前には老婆の赤黝い顔が浮んだ。彼女は障子の側の火鉢によりかかるようにして坐ったまま、あたりをじろじろ見廻している。その丁度膝に当る畳の下に、夜彼女の枕が置かれる所に、古ぼけた欝金木綿の袋があって、その中に銀行の通帳とまた新らしい紙幣とがはいっている。じっと空間を見つめている壮助の眼は熱くほてってきた。
それは必ずしも盗みの心持ちではなかった。然し一歩ふみ出せば、そして一度ふみ出したら、もう後《うしろ》へは引返されそうになかった。
じっと物のすきを狙っていて其で妙におずおずした老婆の眼を、壮助は自分のまわりに見出した。縁側を通る時、彼女の眼は障子の内からその足音の方へ向けられた。表の格子戸を出入りする時、彼女の眼は彼の懐のうちに投げられた。或時勝手許に通ろうとする時壮助は我知らず老婆のまわりに不安な一瞥を与えた。その時彼女の眼は彼の内心に向けられた。
老婆の眼が壮助の神経に纒わって来るに従って彼の知覚はまた執拗に老婆の上に注がれた。彼女は室の真中に決して坐らなかった。何時《いつ》も隅の方で、仕事をし食事をした。晩にはわざわざ電気を片隅に引張っていって其処で夕刊を読んだ。それから夜床に就く前に、暫く蒲団の上に坐って何やら胸のうちで考えるのを常とした。その側の箪笥の上には稲荷様の小さな厨子があって、瀬戸の狐が二つ三つ置かれていた。
彼女は毎朝大抵日が高く昇ってから朝湯に行った。時々午後に何処《どこ》へか出かけて行って夕食前に帰って来た。その留守中、心持ち痩せた悧巧そうな小婢が勝手で働いていた。何か用を拵えて一寸使にやる、そしてその隙に老婆の室に自分が立っている……。
壮助はふと我に返って、自ら空想の糸をぷつりと絶ち切ると、不安がむらむらと起って来た。何か悪いことが、取返しのつかないことが起りそうであった。
ふいと表に飛び出すと、空が晴れていた。日が輝いていた。その中に在る自分の孤影が急に涙ぐまるるまで佗びしかった。そして光子の名をまた心の中で呼んだ。
光子の病気は殆んど同じ所に停滞していた。同じ様な容態の日が明けてはまた暮れた。然し何かが或る動き出そうとする力が、じりじりと迫って来つつあるのを思わせた。それはいい方へか又は悪い方へかは分らなかった。
「もう運に任せる外はありません。」羽島さんの眼付が云った。
「如何でございましょうかしら。」と小母さんの眼付が云った。
台所の用から衣類の始末まで小母さんは一人でしなければならなかった。そして羽島さんには彼の水滸伝と商売とがあった。貧しい食卓からさえも度々立ってゆかなければならなかった。
「ほんとに何にもございませんで……。」と小母さんは気の毒そうな顔をした。
「いやその方がいいんですよ。御馳走なら、光ちゃんがよくなってから沢山いただきましょう。」
壮助は屡々夕飯の世話をかけることさえ何となく済まないように思っていた。貧しい食卓が一家の引きつめた経済状態を思わせた。そして……それがまた自分自身を顧みさした、近々のうちに拵えなければならない、そして当のない、多額の金を。
「光子がもし助かるとすれば、皆あなたのお蔭です。」
羽島さんはそう云って淋しい顔をしながら箸を取り上げた。その言葉に小母さんがじっと眼を伏せている。
何という卑下《ひげ》であろう、そして其処には亦生活の疲れと長い心労とがあった。然しそれはまた一層濃い色を以て壮助自身のうちに返って来た。彼は羽島さんの姿を、色艶の悪いその顔を、仰ぎ見るようにした、助けを求めるような心で、百円を与えたことをはっきり意識した心で、そして……その返済を求むるような心で。
壮助は座に堪えられないような気がした。そして病室に入《はい》ると、光子が急に大きな眼を開いて彼の顔を見た、そして口元に無心な微笑を漂わした。その側に坐って、彼は顔をそむけて涙をはらはらと落した。
看護婦が座を立った時、光子は急に壮助の方に顔を向けた。
「津川さん、なぜ泣いたの。」
壮助は光子の眼をじっと見返した。そして頬の筋肉がぴくぴく震えてくるのを感じた。
「なぜ泣くの。」光子の眼附がまたそう云った。
「光ちゃんがね、早くよくならないからつい悲しくなったのだよ。」
「あたしそんなに悪くはないわ。」
「ですから早く滋養分を取って元気をつけなければね……。」
「ええ、」と光子は頭を軽く動かした。「だから辛抱して食べてるのよ。」
その時光子は急に起き上ろうとするようであった。壮助はその意味がはっきり分った。で枕頭の瓶をとりあげて見せた。
「これ?」
「ええ。」
それはソップの瓶であった。中のものはすっかり飲みつくされていた。
「今日はすっかり飲んだわ。……でもそれはおいしくないのよ。」
壮助は何と答えていいか分らなかった。
「私いつよくなるんでしょうね。もういいような気がするんだけれど……。」
彼女の眼はただぼんやり開かれていた。そして其処に映っているものは淡い影のような物象だった。悲しみも苦しみも無いような澄んだ露《あら》わな光りが漂っていた。
七時頃に大抵咳が来た。
かすかな呼吸が乱れて来ると、喉のあたりに長く引いた吸気の痰に妨げらるる音がした。そして殆んど本能的に幾つもの空咳が為された。呼吸の数が不斉になり、頬の赤みが増してくる。そして喉にからまる痰の音が、はっきり聞えるようになる。それが暫くの間続いた。衰弱と長い習慣とのため、別に努力も為されなかった。そしてやがて、ぐっと何かつまったような音がすると、かっと痰が口腔の中に吐き出された。看護婦は小さく切った紙片を彼女の唇にあてて、その痰を彼女の舌の先から拭い取った。
「お水《ひや》。」と光子は云った。
瓶の吸口から冷たい水を二口ばかり吸い取ると、暫らく口のあたりを動かした。そして眼が湿《うる》んでいた。
光子はぼんやり其処《そこ》に居る人々を眺めたが、すぐに視線を外《そ》らしてしまった。そしてそのままの無関心な状態が、彼女をうとうととした眠りに導いた。
壮助は腕を組んで光子の横顔を眺めていたが、一人取り残されたような自分の心を見出した。じっとして居れないような気持ちが胸先にこみ上げて来た。
辞し去る時彼は、自分の前に視線を落して羽島さんの顔を見なかった。彼を見る自分の眼附を恐れたのである。
外に出ると輝いた星としっとりとした空気との春の夜であった。何処かに温気《うんき》を含んだ静かな大気と軒燈の光りとが、遠くへ人の心を誘った。壮助は誘わるるままに明るい通りを人込みに交って流れていった。そして何等のはっきりした意志もなくとある活動館に入った。
新派悲劇、泰西活劇、旧劇、そういう写真が彼の前に展開された。そして俗悪なる弁士の声が彼の耳に響いた。群集の頭顱が重り合って並んでいて、温気が館内に立ち罩めていた。凡て卑俗なもの、激情的なもの、混濁のうちに醸される好奇なもの、そんなものが彼の頭をぼんやりさし、彼の頭の中にもやもやとして熱《ほて》りを立ち罩めさした。写真の合間にぱっと明るく電気がついて、自分の側に眉の濃い鳥打帽の男や赤い手絡《てがら》の女やを見出す時、彼は顔を上げ得られないような気持ちに浸っていった。
人波にもまれて活動小屋から押し出されると、彼はもう凡てが懶くなっていた。それでも何かに追われるように一人でに足が早められた。頭の芯に遠い痛みが在った。
閉められている宿の戸をそっと開くと、内からお婆さんの大きい声がした。
「かっといて下さいよ。」
その声をきくと、急に身体の筋肉が引緊《ひきし》められた。そして何かが、重い鈍なるものが、彼の眼の前にぴたりと据えられた。其処で凡てがゆきづまっていた。
「どうにでもなるようになるがいい。」と彼は投げ出すように呟いた。然しすぐその後から別な声が囁かれた、「あすという日が来たなら……。」
然しながら、重苦しい眠りの中には、凶なる夢が彼を待っていた。
――広く明るい舞台の上にでも見るような室だった。何処から射《さ》すともない明るみが一杯に湛えていた。そして其処に妙な男が一人立っていた。姿は何にも見えなかったが、兎に角或る男が立っていることは事実だった。恐らく黒い布で覆面しているであろう。……そして何かが……盗みが今為されようとしていた。男は畳の数を
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング