って衰弱も増すものです。それに心臓を弱らせないようにしなければいけません。」
 壮助は何を信じていいか分らなかった。然し腹部に余病がないことと腸に結核がないこととは確からしかった。其処から光明が湧いて来た。彼は横から医者の顔を仰ぐがようにした。髪を長く伸し短い鬚を生《は》やして、下目勝《しためが》ちに物を睥《にら》むような癖のあるその年若い医学士に、彼は急に感謝したくなった。そして種々な細かい注意事項を尋ねた。胃腸を丈夫にして食慾を進めることが目下の急であり、滋養物も種々な製薬品よりは直接に生《なま》の肉や野菜から搾り取ったものの方がいいという彼の意見にも、壮助は自分の乏しい知識と常識とから首肯出来た。
 二人《ふたり》は何時のまにか医者の家の前まで来てしまった。壮助は驚いたように急に別れを告げた。
「兎に角一寸病勢を防ぎ止めたのですから、よく注意なさらなければいけません。」と医者は終りに云った。
 一人《ひとり》になると壮助は急に空に向って飛び上りたくなった。暗い杜絶したものが急に彼の前から取り払われた。凡てがよく、凡てがいいようになるであろう。彼は殆んど駈けるようにして羽島さんの家へ帰って来た。
 狭い裏口の方に廻って其処から入《はい》ろうとすると、羽島さんが彼の足音を聞きつけて、すぐにやって来た。然し彼は何とも云わないでただ壮助の顔を見守った。
「心配なことは少しもありません。」
 不用意に投げられたその一言が却って壮助自身を驚かした。彼は一寸息をつめて羽島さんの顔を仰いだが、それから静かに云った。
「腹部にも何処《どこ》にも余病はないそうです。余病が出ると非常に危険だから念のために幾度も便の検査をしたんだそうです。それに胸部の痰もこの頃は非常に少くなっていると云っていました。病勢が一寸防ぎ止められているそうです。これから熱が出ず食慾が増してゆけばもう大丈夫なんです。然し衰弱がひどいから安心は出来ないそうですが、種々|悉《くわ》しく手当を教わって来ました。」
 壮助は腸結核の問題に就いては何にも云わなかった。老人に対しては常になすべき多くの気兼があった。そして咄嗟《とっさ》の間に壮助はそれを忘れなかった。それから彼は医者から聞いた種々な細かな注意を話した。
 羽島さんは黙って聞いていたが、壮助が話し終ると、何とも云えない顔をした。昏迷した表情のうちから静かな湿《うる》んだ眼が覗いていた。
「ではどうにか助かるかも知れませんね。」
「え?」
 壮助はそう問い返したが、そのままあわてたように眼を外《そ》らした。何時のまにか彼等の心のうちに根を張っていた光子の死の予感が、表《あら》わに姿を示した。「どうかして助けなければ……。」そう思う心の奥に何時のまにか死の予感が、死の予期が、入《はい》り込んでいた。焦慮や諦めや希望やが其処に戦われた。
「兎に角これからが大切です。」
「そう……。」
 羽島さんは手を挙げて、心持ち禿げ上った顔を撫でた。
 何を悲しみ苦しむことがあろう!
「大丈夫です。」
 壮助はそういう言葉を残して病室の方へ去った。
 光子の側《そば》には看護婦が演芸画報を披いて見ていた。光子の視線はその姿を掠めてじっと壮助の顔の上に据えられた。
 病室の淡い薬の香の籠った温気《うんき》が、壮助の心を儚《はかな》いもののうちに誘《さそ》い込んでいった。彼は苦しくなった。
「お湯に行って来《こ》られませんか、私がついていますから。」
「左様ですか。」と答えて看護婦は暫く考えていたが、「では一寸行って参りましょう。」
 看護婦が出て行った後、病室は静かに澱んできた。勝手許で用をしている小母《おば》さんの物音が間を置いてははっきり聞えるようだった。
 天井を見ていた光子の眼がまたじっと壮助の方に向けられた。病に頬の肉が落ちてからその眼は平素よりも大きくなっていた、そしてその清く澄んだ黒目の輝きが露《あら》わになっていた。
「ねえ津川さん!」
 壮助は自分の名を呼ばれて、畳の上に落していた眼をふと挙げた。
「私これでよくなるんでしょうか。」
「そんなことを考えるからいけないんだよ。よくなることばかり考えなけりゃいけないよ。医者も大変いいと云っていたから。」
 光子は一寸|黙《だま》っていた。
「ね、私に教えて下さらない?」
「何を?」
「先刻、お父さんと何を話していらしたの。」
 壮助はじっと光子の眼を見返した。その眼には物を詰問《きつもん》するような輝きがあったが、壮助の視線に逢うとすぐに深い悲しみのうちに融《と》け込んでいった。
「あなたまで私に隠そうとなさるんですもの。」
「いえ何も隠しはしないよ。いつだって何にも隠したことはないでしょう。先刻《さっき》はね、お父さんが大変心配していらしたから、私が医者に詳《くわ》しく聞いて
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