坐らなかった。何時《いつ》も隅の方で、仕事をし食事をした。晩にはわざわざ電気を片隅に引張っていって其処で夕刊を読んだ。それから夜床に就く前に、暫く蒲団の上に坐って何やら胸のうちで考えるのを常とした。その側の箪笥の上には稲荷様の小さな厨子があって、瀬戸の狐が二つ三つ置かれていた。
彼女は毎朝大抵日が高く昇ってから朝湯に行った。時々午後に何処《どこ》へか出かけて行って夕食前に帰って来た。その留守中、心持ち痩せた悧巧そうな小婢が勝手で働いていた。何か用を拵えて一寸使にやる、そしてその隙に老婆の室に自分が立っている……。
壮助はふと我に返って、自ら空想の糸をぷつりと絶ち切ると、不安がむらむらと起って来た。何か悪いことが、取返しのつかないことが起りそうであった。
ふいと表に飛び出すと、空が晴れていた。日が輝いていた。その中に在る自分の孤影が急に涙ぐまるるまで佗びしかった。そして光子の名をまた心の中で呼んだ。
光子の病気は殆んど同じ所に停滞していた。同じ様な容態の日が明けてはまた暮れた。然し何かが或る動き出そうとする力が、じりじりと迫って来つつあるのを思わせた。それはいい方へか又は悪い方へかは分らなかった。
「もう運に任せる外はありません。」羽島さんの眼付が云った。
「如何でございましょうかしら。」と小母さんの眼付が云った。
台所の用から衣類の始末まで小母さんは一人でしなければならなかった。そして羽島さんには彼の水滸伝と商売とがあった。貧しい食卓からさえも度々立ってゆかなければならなかった。
「ほんとに何にもございませんで……。」と小母さんは気の毒そうな顔をした。
「いやその方がいいんですよ。御馳走なら、光ちゃんがよくなってから沢山いただきましょう。」
壮助は屡々夕飯の世話をかけることさえ何となく済まないように思っていた。貧しい食卓が一家の引きつめた経済状態を思わせた。そして……それがまた自分自身を顧みさした、近々のうちに拵えなければならない、そして当のない、多額の金を。
「光子がもし助かるとすれば、皆あなたのお蔭です。」
羽島さんはそう云って淋しい顔をしながら箸を取り上げた。その言葉に小母さんがじっと眼を伏せている。
何という卑下《ひげ》であろう、そして其処には亦生活の疲れと長い心労とがあった。然しそれはまた一層濃い色を以て壮助自身のうちに返って来た。彼は羽島
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