ように蒼白く綺麗にしていたが、長く洗わない手首から上は黒く垢がついていた。生気の無い乾燥した皮膚が爪で掻いたらぼろぼろと落ちそうであった。
「も少しの我慢よ。癒《なお》ったらすぐに綺麗になるからね。」
 壮助はその手を取ってそっと蒲団の中に入れてやった。その時彼はそれとなく手首の脈に触《さわ》ることを忘れなかった。軽いそして心持ち早い脈搏が彼の指先に感じらた。
「始終身体が穢いと云っては気にしていますがね……。」
 母はそう云ってまた涙ぐんでいた。
「いくら穢くなっても大丈夫ですよ。」と看護婦がそれに答えた。「綺麗な身体をしている病人はいけないものです。穢くなるほど宜しいですよ。」
「ですけれど……。暖《あたたか》い時そっと拭いてやったら如何《どう》でしょうか。」
「そうですね、も暫く見合した方が宜しいでしょう。」
 光子はいつのまにか眼を閉じて向うを向いていた。その側に看護婦は身を屈《かが》めた。
「何か食べませんか。え、ほんの少しだけ。」
「何にも食べたくないの。あとにして頂戴。」
「仕方がありませんね、そんなでは。」
 看護婦は飲み残しの重湯《おもゆ》をまた覗いてみた。それは朝からまだいくらも飲まれてはいなかった。
 病室では凡てが静かに動いていた。そしてその静かな動作や言葉のうちに病人の軽い気息《いき》が纒わっていた。然しともすると看護婦の直線的な動作が、物馴れた無遠慮なやり方が、その雰囲気を乱し勝ちであった。それがいつも壮助を不快ならめた。然し病人の手当のうちには彼の覗き得ない別な世界があった。彼は手を拱《こまね》いてただ傍《そば》から見ているより外はなかった。
 座を立って次の室に来ると、羽島さん(光子の父)は水滸伝を読んでいた。傍の本箱には、八犬伝や西遊記や春秋左氏伝やそういう種類の和漢の書物がつまっていた。
「如何です?」と彼は眼鏡を外して壮助の顔を窺った。
「少しはいいようですが……。」
「そうですか。……何時も見舞って下すってお差支えではありませんか。」
「なに私の方はいいんです。」
「いや出勤のお身体だからそうお隙でもありますまい。然しあなたが暫くお出でにならないと病人が大変淋しがるものですから。」
 羽島さんはその時何やら少し小首を傾けて考えていたが、「一寸《ちょっと》」と云って自分から先に立ち上った。
 居間のすぐ横に台所と並んで薄暗い三畳
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