は床の間から※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]のソップのはいってる瓶を取った。
「少し飲んでみない?」
軽く首肯《うなず》いた光子の唇に、壮助は瓶の吸口を当ててやった。光子は二口ぐっと飲み込んだが、それきり首を振った。
壮助は枕頭の布を取って、汁の少したれている光子の口のまわりを拭《ふ》いてやった。妙に子供らしい筋肉の足りないように思わるるその口元にも、肉が落ちて皮膚がたるんでいた。
「私よくなったらお願いがあるのよ。」
「ええ云ってごらん。」
「きいて下すって?」
「何でもきいてあげるよ。」
「あのね、人に云ってはいやよ。……よくなったら玉川の鮎が食べたいの。」
壮助は淋しく微笑《ほほえ》んだ。何時だったか小母さんと三人で玉川に遊んで、鮎の料理を食べたことがあった。光子は少しきり箸をつけなかった。尋ねてみると、「おいしいけれど……。」と云って笑った。
「ええよくなったらまた連れていってあげようね。だからなるたけ元気をつけなければいけないよ。」
光子はほっと安心したように微笑んだ。
「今に暖くなると、すぐに起きられるようになるんだからね。」
そして壮助は心のうちで、「よくならなければならない!」と叫んだ。然しそれが妙に苦しかった。頼《たよ》り無い不安が彼の胸の中に流れた。
三
壮助は夜の九時頃、ほの暗い裏通りを自分の下宿の方へ向って歩いた。うとうとと眠っている光子の顔が彼の頭の中に刻まれていた。
ややあって彼はふと足を止めた。「今日が丁度……」と思ってみたが、頭がぼんやりして幾日だかはっきり思い出せなかった。そして妙に苛々《いらいら》して来た。
電車通りの方へ足を向けて、其処の交叉点に出ると、夕刊売りの何時もの女が背中に子供を負《おぶ》って鈴も鳴らさずぼんやり立っていた。
「おい一枚おくれ、何でもいいから。」
夕刊を引ったくるようにしてその欄外を見ると、三月六日としてあった。
「やはり今日は三月五日だったのだ!」壮助は二三町新聞を片手に掴んで歩いていたが、それをそのまま其処にうち捨ててしまった。
綺麗に剃刀をあてていつもてかてか光っている幅の広い脂切った古谷の顔が、壮助の眼の前に浮んだ。そして自分の帰るのを待って火鉢の前に傲然と構え込んでいるその姿を見るような気がした。
それは去年の九月だった。義理ある叔父が事業の失敗後満
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