に累積する迫害と身内に燃ゆる火、現在の闇黒と未来の曙光、そういうものの持つ一種ヒロイックな魅力、被搾取階級の惨澹たる生活、それに対する同感と愛、それらは確に人を惹きつける或物を持っている。けれども、単に惹きつけることは、味方の陣営に投ぜさせることではない。大衆は、一人の大杉栄を知ることによって、或は一人の××××を知ることによって、はっきりと敵味方に別れる。そしてこの截然たる敵味方の区別が、実は最も大切なのである。そこから、社会は本当に動き出す。
 文学のなかに、何故、一人の生きた大杉栄が現われてこないのか。或は一人の生きた××××が現われてこないのか。それを全幅的に現わすには、非凡の才能が必要であるかも知れない。それならば、せめて部分的に、横顔だけでもよい。
 事件や場面だけでなく性格をも描きたいという志望が、作者たちに欠乏しているわけではあるまい。がその志望の実現を阻む障害が、手近なところにあるのではあるまいか。
      *
 文学が余りに観念的に単調になるのを救わんがために、新しくリアリズムが説かれた。それは至当だ。然しこのリアリズムは、強権主義に煩いされた「党」の陣営内にあっては、事件や場面にのみ局限されて、人間の性格を視野の外に逸するのは、蓋し当然の帰結であろう。
「党」の趣旨を絶対指導の地位に置き、それによって万事を統制し、人間多様の欲望や夢想や要求を認めず、思想及び行動の自由を拒否する、そういう強権主義は、文学の上にも重い軛を投げかける。なぜなら、一つの思想しか認めず、一つの欲望しか認めず、随って一つの生活しか認めず、随って一つの性格しか認めないところに、文学の自由な発展があり得よう筈はないから。かくて文学は、その内部精神に於ては、ただ一色に塗りつぶされる。一色に塗りつぶされた文学は、如何にリアリズムの途を辿ろうとも、事件と場面のリアリズム以外に出ることは出来ない。そこでは、凡ての作品が同一の制約と同一の目的意識――作意――を以て書かれる。そして常に同一の作意を以て書かれる時、反覆を避けんがためには、事件や場面の変化にたよるより外に途はない。いつの時代にあっても、何等かの意味の強権主義の掌中にある文学は、みな同じ運命にあった。
 文学をして真に生長させ、文学としての務を果させるには、「党」的強権主義の桎梏かち離脱させなければいけない。人間多様の欲望
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