郎氏の如きもその一人である。回顧と感傷とだけが氏の本領ではあるまい。新陣営に於ける新性格の発生が必然に将来させる、旧陣営に於ける新性格を探求して、「別れの言葉」の一片でも聞かせてもらいたい。但し、私は氏の近作に接していないから確言は出来ない。それならば、長与善郎氏はどうだろう。文学によりもより多く生活に関心を持っている氏だ。「重盛の悩み」から十歩も二十歩もふみ出してもらいたいものである。「この人を見よ」には、別れの言葉以上の微光があった。
      *
 文学が何等かの進展をなさんとする場合には、殊に、新たな性格が作品のなかに要求される。そしてその要求が満された時に初めて、文学は進展の一段階を上る。
 文学の進展への動力となるような作家は、何等かの意味で、新しい性格を探求し描出する。
 バルザックの豪さは、恋の囁き以外に金銭の響きを聞かせたことよりも、より多く、ユーロー男爵やゴリオ老人の如き人物を描出したところにある。フローベルの豪さは、その厳正冷徹な創作態度よりも、より多く、ボヴァリー夫人の如き人物を描出したところにある。イプセンに於けるノラ然り。ツルゲネーフに於けるバザロフ然り。
 勿論私は、日本の新陣営の作家を悉く、バルザックやツルゲネーフなどと比較して論断するの意はない。けれども、社会の進化は各部門に於て為されなければならないし、文学をやる者は、平常、文学の部門に於て働かなければならないと信ずるが故に、新陣営の作家が余りに性格探求を怠ってるのを、不審に思うのである。
 彼等の作品には、余りに性格が少く、余りに事件や場面が多すぎる。事件、場面、そして事件と場面ばかりだ。オルガナイザーの行動、ストライキの裏面、労働者の生活、工場の内部、留置場、刑務所、其他種々のことを読者は読ませられる。けれども、社会運動に挺身して奮闘している人物をまざまざと示されることは、殆どないと云ってもよい。そこで読者は、遂にこう云うだろう。――事件や場面のことならば、種々の報告書を読む方がより正確だし、種々の場所を見物する方がより明瞭だ。吾々はそんなことよりも、その中で活動してる人間を知りたい。そしてそのためには、多くの小説を読むよりも、例えば、三田村四郎氏の獄中からの手紙数通を読む方が、まだましである。云々。
 これに対して、彼等は何と答えるだろうか。
 社会運動者の忍苦と意力、周囲
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