えはしなかったろう。
 出発まで、彼は秦を探したが、探す方法の手掛りさえもなかった。或る時、南京路の人込みのなかで、あの時の青年の一人を見かけたように思ったが、先方で隠れたのか、即時に見失ってしまった。彼は四日後に、早朝、飛行機で日本へ飛ぶことになった。
 彼は出発前、秦啓源への伝言を私に託した。もしも逢えたら……と私は答えた。その代り私は、張浩の死を彼に知らせた。政治的なまたは思想的なテロの犠牲ではなく、なにか商取引にからんだ事件らしいと、私は力説したが、彼はなかなか信じなかった。ただそう信ぜよと言っても無理だったろう。然し私の言葉は真実なのである。私はこの事件によって、秦啓源の生活をかなり詳しく知ることが出来た。それもやはり別な物語に属する。
 私が滞在していたのはブロードウェー・マンションの十五階の一室で、目の下に街衢の屋並から、遙か、黄浦江の流れや村落が展望された。多くは大気が濁っていて、少し遠くはもう茫とかすんでいた。
 或る夕暮、その窓から、私は秦啓源と二人で外を眺めていたことがある。窓外にはもう蝙蝠が飛び廻っていたが、電灯もつけず、無言のままでいた。
 秦は私の方を顧みて
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