ついて、彼はしきりに自賛していた。
「こういう食物は、寄生虫の伝説さえなければ、日本の文学者にも好かれそうだ。」と彼は言った。
その文学者のことから、私は、星野武夫に逢ったらどうかと言いだした。
「そうだね、礼を欠いてはいけまい。」と彼ははっきり言ったのである。
然し、彼の顔はなんだか曇っていた。それから、眉根に皺を寄せて暫く考えた。
「今からすぐに逢おう。」
そう言ってしまうと、彼はまた晴れやかな顔付きになった。
彼は名刺を取り出して、鉛筆で二三行走り書きした。それから、いつも彼が引き連れている張浩を、星野武夫のホテルへ遣した。
「電話でもかけてみなくてよいのか。」と私は注意した。
「いや、たいていホテルにいる筈だ。」
その答は意外だった。彼は星野の動静を探り知っていたのかも知れない。私は彼の顔を眺めた。彼は眼を挙げた。
「君も、今夜つきあってくれるだろうね。」
私は微笑して答えた。
「いや、外に用事があるし、まあ、君達だけの方がいいだろう。」
彼は私を見て、かすかに微笑した。
これは私と彼との間の暗黙の了解事項だが、私達が非常に親しくなったことについては、当分のうち他に知られたくない事情があった。この事柄も別な物語でなければ述べられない。
そこで、私は暫くして立ち去ったのである。
星野武夫が張浩に案内されて来た時、秦啓源は一人ぽつんとしていた。そこは二階の広間で、幾つもの大きな卓が並んでいて、客は入れ混みになっている。秦は窓際の隅の卓にいた。
星野はつかつかと歩み寄っていった。
「やあ、しばらく。ずいぶん探しまわっていたんですよ。逢えてよかった。」
秦は立ち上って、笑顔で、黙って右手を差し出した。それから、席について、ケースの煙草をすすめた。張がマッチの火をすった。
以前通りの秦だった。こわい毛の長髪、澄んだ深い眼差し、中国人にしては珍らしい秀でた鼻筋……。だが、頬の皮膚になんだか血色のうすい荒みが漂っている。黒い洋服はきっかり体躯についた仕立て方で、襟の折返しの工合か肩の袖付の工合か、それとも淡色の編みネクタイの影響か、へんに伊達好みな気味がある。その頬とのちぐはぐな印象に、星野はなにか冷りとしたものを感じた。
「食事は……。」と秦は尋ねた。
「まだです。別に食いたくもないので、ウイスキーを少しやったところですよ。」
「そう、あなたは洋酒の方でしたね。然し、老酒も少しいかがですか。」
「いや、大好きですよ。」
当りさわりのない挨拶だけが長引いた。久しぶりに逢ったせいばかりでなく、また、張が側に控えてるからばかりでなく、つき込んだ話に持ってゆきにくい気味合いがあった。
星野は室の中を見廻した。あちこちの卓に倚ってる客たちは、たいてい支那服の商人風な年輩者が多かったが、それがいずれも静粛で、おっとりした温顔だった。星野は妙な気がした。これまで接した中国人はたいてい、饒舌で騒々しく、表情が険しかったのだ。
「ここは、いいですね。なんだかなごやかで……。」
秦は笑顔をした。
「ほかと違っているというのですか。」
「ええ、雰囲気が……。」
「これが本当の中国……本当の支那ですよ。あなたは諸方を見て廻られたでしょうが、上海の雑踏の中心地にこんな姿があろうとは、思われなかったでしょう。」
「然し、これが本当の中国の姿とは、どういうことでしょう。騒々しい険しい表情の中国は、それでは本物でないというのですか。現実は常に本物でしょう。」
「いえ、それは別な問題ですよ。私はあなた方の実感のことを言っているのです。中国というものはあなた方の実感の中にはなく、あるのは支那というものだけでしょう。」
「違う。」と星野は叫んだ。
星野に言わすれば、支那というものだけを実感しているのは、日本の旧時代層であって、新時代層は中華民国というものを実感している。その実感から、中国を近代的統一国家へと護り育てようとする誠意も生れてくる。この誠意は信頼して貰わなければならないのだ。
然し秦に言わすれば、その近代的統一国家の概念と支那という概念との間には、日本人の頭脳の中で喰い違いがある。だから、例えば日支文化の交流提携ということについても、旧支那文化と新日本文化との交流という、喰い違った面に於て考えられる弊がありはすまいか。
然し星野に言わすれば日本には本質的な新旧間の断層はなかった。
然し秦に言わすれば、支那にもそういう本質的な断層はない筈だが、断層があるように見える現象を心から泣いたのは、あの偉大な作家魯迅だった。
然し星野に言わすれば、万国公墓の魯迅の墓に肖像の焼き付けを嵌め込んだ、あの俗悪さに、魯迅は一層泣くだろう。
話はこのような筋途を辿っていったが、秦は次第に憂鬱になってゆき、随って言葉も少くなっていった。
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