と忍び笑いをする。
瞬間にぷっつり息が切れて、わあっとしたどよめきになる。和田弁太郎は緊張した顔付で、そのままカフェーを飛び出していった。
小説家は一寸話を切って、どうだろう、という工合に三度批評家の顔を見ました。
「それは面白い。」と批評家は云いました。
「それでいいじゃないか。」
ところが、それが何だか小説家の気に入らないようでした。
「然し、彼は彼女に接吻した……それだけじゃあ、どうかな。」
「では、その後に、一寸何かつけ加えたらいいだろう。」
「それを僕は考えてるんだ。彼はひどく幽鬱になった……とか、彼ははっと晴々とした気持になった……とか、何かそんな風なことをね……。」
「うむ……然し幽鬱になったというのはどうも旧時代的だし、はっと晴々とした気持になった、というのはどうも余りに新時代的で、何だか不自然な作者の感想みたいに思われやしないかね。」
「だから僕は困っているんだ。彼女に接吻した、だけじゃあどうも納まりがつかない。」
「だが、その、実際の話はどうなんだ。実際のその男の話は。」
「それがね、むつかしいんだ。彼女に接吻した、それから変な気になって、郷里へ帰ってゆく。すると、お梅はもういない。母がうすうす事情を悟って、お梅には暇を出してしまったのだ。彼はその母の心にひどく感激して、すぐに東京へ舞い戻って、寄宿舎の仲間から何と云われようが平気で、熱心に勉強し出した、とそういう話なんだ。ところが、接吻以後は、どうも僕にはついてゆけない。むりについてゆこうとすると、通俗になりそうな気がするんだ。」
「然し、通俗になるもならないも、材料の関係じゃなくて、取扱方だけに依るのじゃないか。」
「それはそうだが、どうもはっきりついてゆけないんだ。」
「それじゃあ仕方がない。彼は彼女に接吻した、それでぷつりと切っちまうんだね。……然し、やはり変かな。」
「うむ、どうも変でね。」
「変と云やあ変だね。」
そこで二人は口を噤んでしまいました。そして暫く互に顔を見合せながら、深く考えこみました。そのうちに、ふと白々しい気持になってきました。小説家の方も批評家の方も、自分達が如何につまらないことばかりを考えあぐんでるかということが、胸の底にぼんやり映ってきたのです。
そして二人共、いやあなちぐはぐな、おまけに呆けた気持になって、一寸どうしてよいか分らないで、茫然としてしまいました。
卓子の上には、もう酒の燗も冷えきっていました。そして食い残しの豆が転っていました。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
1926(大正15)年5月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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