初める。

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かすみのたなびく
はるの野べに
ほほえむすみれの
ゆかしきかな

なつくさしげれる
おかのうえに
さけるなでしこの
やさしきかな

人の世のためし
いかにもあれ
神とともにある
身ぞやすけき
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 和田弁太郎はその歌声に耳を傾け、それら一団の顔を眺める。そして彼女等の生活を想うのである。
 そして彼の頭には自然と一つの比喩が浮んでくる。若い男子の共同生活が蚯蚓の群居であるとすれば、若い女子の共同生活は蝶の群居である。蚯蚓の群居は如何にねちねちした息苦しい、そして卑俗的な窮屈なものであることか。それに反して蝶の群居は如何に爽かな香《かぐ》わしい、そして高踏的な自由なものであることか。とそんな風に彼は感ずる。蚯蚓の鈍感な皮膚と根強い生活力、蝶の敏感な触角と脆い生活力、それを彼は知らない。然し無知は空想を妨げない。彼は彼女等処女の共同生活を想像してみて、それを自分達の共同生活と――自分が感じてる共同生活と比べてみる。
 歌の合唱はまた繰返される。

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かすみのたなびく
はるの野べに
ほほえむすみれの
ゆかしきかな
…………………
[#ここで字下げ終わり]

 清らかな涼しい声が日光に震えて、庭の樹々の若葉に滑っている窓から見ると、その樹々の梢の方だけが宙に浮いて、柔かな青空に懐かれている。
 空には、霞ともつかない薄雲がゆったりとかかっている。見つめているといつしか消えて、青々とした深い大空の肌がじかに感ぜられる。日の光が強くなる。若葉が光ってくる。
 若葉の光りに、和田弁太郎は咽せ返る。椿の固い葉までが光ってくる……。
 大きな椿、その真黒な実、それを竿の先で叩き落すのである。お梅がはちきれそうな笑顔をしている。椿の実を叩き潰して、その汁で髪を洗うと、毛に艶が出る、とそんなことを云う。竿をもてあつかって、汗ばんだ額を拭きながら、あたりを窺う。誰もいない。お梅が一人、眼の前で笑っている。
 何という強健な、だが、息苦しい……抱擁だろう。そんなことを和田弁太郎は追想する……休暇の終りの僅かな日数、それから出発。お梅は今もやはり家で働いているかしら……。彼女は恐らく手紙も書けまい。こちらからも手紙は出せない。そしてもうあれきりのことだ。何という強健な、だが、息苦しい……。
 そこで和田弁太郎は眉をしかめるのである。何かしら不気味な汚れたものにぶつかった気持である。
 いつのまにか、向うの窓には白い顔の群が消えてしまっている。けれど空耳かしら、合唱の歌声はまだその辺の空中に残っている。清らかな香わしい杳かなものに、心が囚えられてゆく。
 そしてやはりいつまでも、和田弁太郎は夢想に耽るのである。睡眠不足の熱っぽい頭は、明確な観照をぼかして、そういう馬鹿げた夢想に適するのである。
 そういう彼を、不意に同室の誰かが襲うことがある。
「おい、どうしたんだ。」とぽんと肩を叩いて、皮肉な微笑を馴れ馴れしく見せつける。「また例の、プラトニック・ラヴかね。もう誰もいやしないじゃないか。」
 和田弁太郎は既に先刻から、向うの建物の窓に誰もいないことを知っている。然し明らさまに云われると、おもわずかっとなる。プラトニック・ラヴという言葉が第一気に喰わないのである。カフェーなんかに入りびたってるくせに、という腹もある。
 もし友人がそれ以上突っこんでゆくならば、和田弁太郎は眼をぎらつかせながら、本当に飛びかかって殴りつけかねない様子をする。で彼を揶揄するには、他の機会を俟たなければならない。
 平素は大抵彼は黙々として元気がないのである。不機嫌そうに顔をしかめて、意気消沈したもののようである。
 実際彼は不機嫌で力がなく蒼ざめている。それでなお屡々、二階の窓際に坐りにゆく。

 小説家は一寸話を切って、どうだろう、という工合にまた批評家の顔を見ました。
「それは一寸と面白い。」と批評家は云いました。
「そうかねえ。」
 気乗りしない調子で小説家は答えて、余り嬉しそうな顔もしませんでした。それに調子を合せるように批評家は更に云いました。
「面白い。が然し、動きがないね。一つの情景《シーン》だけで……勿論その情景は、窓に坐って女学生の讃美歌の合唱をききながら田舎の女を追想するあたりは、面白いには面白いが、それだけじゃどうも、少し物足りなかないかしら……。」
「僕もそういう気がする。然し動きはこれからなんだ。」
 そして小説家は、第三の「彼は彼女に接吻した。」を話しだしました。

 寄宿舎の近くに、安っぽいカフェーが一つあった。彼等はよくそこへ酒をのみに行った。和田弁太郎も時々ついていった。
 然し彼がそこへ行くのは、皆とすこし違って、或る一種の反抗的な気勢からである。寄宿舎の共存生活に対する嫌悪や、お梅の苦々《にがにが》しい面も誘惑的な追想や、女学生の歌をききながら夢想する空漠たる憧憬や、其他いろんなものが重なり合って、いっそもっともぐってやれ、自分自身を泥の中につき落してやれ、とそういった突発的な気持になることがある。そういう時彼は、戦闘的な気勢で、皆に交ってカフェーへ行く。
 それは、彼等貧しい寄宿学生にふさわしいカフェーだった。天井の低い室に古ぼけた木の卓子、そして、安くて豊富な料理も出来る。その上、お喜代という女給がいる。
 顔立は一寸整っているが、皮膚のまのびた女である。ひどく肥満していたのが、皮膚はそのままで中の肉だけしぼみ落ちたかのように、肉附に妙にしまりがない。だから頬辺ばかりを眺めると、二十歳以下なのが二十五六歳にも見える。然し唇と※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]とだけは、みっちり実《み》がはいっている。
 或る朝、誰かがカフェーの前を通りかかった時、彼女は丁度掃除を初めていたが、田舎の女がするように、着物の後ろ襟にハンケチをさしはさんで、襟垢を防いでいた。それが彼女によく似合っていた。発見者は喜んだ。伝え聞いた一同も喜んだ。皆田舎出の青年である。そして中に一人剽軽な者がいて、刺繍入りの大きな絹ハンケチを彼女に贈ったところが、それを頸飾りみたいに首へ巻き縮らしたのが、彼女に不思議とよく似合った。
「いよう、素敵、素敵。公爵令嬢といったところだ。」
 彼等は手を叩いて喜んだ。
 彼女は少し酒が飲めた。酔ってくると、絹ハンケチを首に巻き縮らして、勿体ぶった様子で出て来る。そして皆の方へ後手を一寸差伸して、上目がちに会釈をしてみせる。
 彼女は時々活動写真を見にゆくのである。
 がそれ以外には、彼女は普通の至極平凡な女給である。
「ねえ、あたしまだ都々逸《どどいつ》がよく歌えないの。教えて頂戴。」
 気持のこもらない眼付で、声の調子だけに媚びを含めて、誘いかけてくる。
「止せよ、都々逸なんか。それよりか、初めよう、例のを。」
 仲間の一人が休暇中大島へ行って大島節を輸入してきたのである。
 誰か一人が音頭をとる。

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わたしゃ大島
御神火そだちよ
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 初めの一句は調子外れで、後はどうにか歌ってのける。その次は皆の合唱である。

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胸にゃ煙が
絶えやせぬ
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 それが何度もくり返される。コップを叩く者がある。足を踏み鳴らす者がある。わあっという騒ぎ……。
 他に殆んど常連というのがない。彼等だけでカフェー全体を占領してる形である。
 和田弁太郎は一人黙って酒を飲んでいる。だから早く酔っ払う。半ば自棄になって、将軍みたいな足取りで歩き出して、合唱に加わる。それをお喜代が面白がってはしゃぎ出す。だが、畜生、貴様の知ったことか、とそんな気持で、彼は女学生の讃美歌合唱を頭の中に描きながら、ばかばかしく声を張り上げる。
 そういう騒ぎが、或る晩突然中断された。
「おい、公爵令嬢、君は何度キスを許したんだ。」
 そう云って、慷慨悲憤癖のある男が――例の、大地震の時に一同がはいりこむことになっているその寝台の男が、お喜代に向って、しつこく、尋ねかけ初めたのである。
「刺繍になら、キスを許すも許さないもないわ。あたしからしてやるのよ、ええ幾度でも。だって、始終首のまわりにつけてるんじゃないの。」
「ばか、白ばっくれてやがる。そら、その刺繍じゃない。そら、あの刺繍さ。」
「どの刺繍。」
「刺繍の男さ。」
「そんな男があって。」
「あるじゃないか。」
「そう。教えて頂戴。」
 そこへ額の白い一人がはいりこんでくる。
「もういいじゃないか、それくらいで……。白っばくれるのは、何より有力な証拠さ。そして、一度あれば、二度三度と……当り前じゃないか。」
 それでも「慷慨悲憤」はなお、お喜代の口から白状させようとする。彼は何かしら、「刺繍」に――絹ハンケチを買ってやった者に、反感を懐いてるらしい。その晩「刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]」が一人室に残って手紙を書いてることからきたものらしい。
「知らないわ。」
 お喜代はぶっきら棒にそう云って、わきを向いてしまう。
「それみろ、」と「白額」が云う、「公爵令嬢の御機嫌を損ねたじゃないか。」
「いやこれは失礼しました。」と「慷慨悲憤」はとぼけた態度に出る。私はただ、御令嬢のキスの価何程なりやと、そういう疑問を起しましたものですから。」
「何だって、」と他の一人が乗り出してくる、「キスの価が何程なりや……。」
「そうさ、」とまた急に調子が変る、「例えば、刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]絹ハンケチ一個に対して、何回のキスを支払うか、という問題さ。」
「そいつは面白い。是非解決すべき問題だね。」
 お喜代はつんと澄しこんでいる。たるんだ頬の肉附が緊張すると、妙になま白い彫刻的な横顔にみえてくる。
「勝手にするがいいわ。あたしはキスを切り売りなんかしませんからね。好きな人にはただで許してやるわ。だけど、あなた方なんかには御免だわ。」
「こいつはお手酷しいね。まあそう云わないで、どうだい僕に一つ。」
「僕にも一つ。」
「俺にも一つ。」
「はははは。」
 反応がなくて、手持無沙汰になって、出すぎた冗談が自分に戻ってきて、彼等は思い出したように杯を取り上げる。
「おい、お酌くらいはいいだろう。」
「はーい。」
 ばかに大きな声を出して、お喜代は顔の筋肉一つ崩さないで銚子を取り上げる。
「君がそうして怒った顔は、また別な趣きがあるね。」
「まあー、お止しなさいよ。」
 打つ真似をして、とうとう笑い出してしまう。それにつけこんで四方から、好奇な眼がぬうっと伸び出す。押しあいへしあい、前へ前へと出ようとしてる気色である。
「止せ、下らないことで一人の女をからかうのは。」
 胸の鬱積が高まってきて、和田弁太郎は思わずわりこんでゆく。皆その方を振返る。で彼はぎくりとするのを、むりに踏みこたえる。
「キスくらいが何だい、下らない。」
 一同の間にちらちらと目配せが行き渡る。
「ほう、和田にしちゃあ驚いたな。キスくらいが何だい、下らない……か。そこが、プラトニックの、その……。」
「いいさ、ねえ、」と一人がお喜代に言葉を向ける、「キスくらいが何だい、下らない……。」
「ええそうよ。」
 これはまたきっぱりとしている。余りにきっぱりとしているので、誰も一寸口を出さない。
 煙草の煙と酔っ払った人いきれとで、もうっとした春の夜である。しいんとなったとたんだけが底寒くて、後はむしむしとする。
「そうさ。」
 プラトニックに対して時置いて応えたのが、お喜代に応えた形になって、和田弁太郎は一寸ためらう。
「ねえ[#「ねえ」は底本では「えね」]。」
 言葉の受け答えが、そのまま咄嗟の気持になってゆく。
「うむ。僕と君と、ここで皆に証明してやろう。」
 つかつかと歩み寄ると、彼女はじっと身動きもしない。その肩を捉えて、唇を頬に持ってゆく。それから我を忘れて、唇の上に……。
 一同は気を呑まれて、息をつめている。和田弁太郎も茫然とつっ立ってしまう。お喜代が一人、くくくく
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