「余り特殊なのと作者の一人よがりとは、一寸区別のつきかねることが多いものだから……。」
「そういうこともないではないが……。」
 小説家は不平そうな顔をして、少し抗議をもち出しかけましたが、中途でふと気を変えたらしく、第二の「彼は窓際に坐っていた」を話しだしました。

 和田弁太郎はよく一人で、寝室の窓際に坐っていた。
 睡眠不足の夜が続くので、彼は学校も休みがちになっていた。そして、友人達が出かけていった後、がらんとした広い自習室に一人残って、ぼんやり考えるのであるが、それが変に頼り無いので、のこのこ寝室に上っていって、自分の寝室に寝そべってみたり、窓縁にもたれてみたりして、とりとめもない夢想のうちに坐り通すのである。
 彼にとっては、夜分寝室が息苦しいと同じ程度に、昼間は自習室が変に威嚇的に感じられるのである。六人の青年が一室に机を並べて、一緒に読書したり思索したりする、そのことから、一種の窮屈な圧迫が生れてくる。室の中に並んでる同じ形の机、同じ形の本箱、同じ形の椅子、同じ広さの座席範囲、同じ時間内の同じような勉強、そういうものがよってたかって、人並であれ人並であれと、個性へ向って呼びかけてくる。自治共存という綱領の、共存は勿論自治までが、大勢で起居する場合には、ひどく不自由な平凡化の作用を働かしてくるのである。
 僅かな学費で東京遊学を志す貧しい青年等のために、郷里の先輩が設けてくれたその寄宿舎が、もし一人一室制になっていたら……と和田弁太郎は考える。そして自習室から逃げ出すように、こそこそと二階の寝室へ上ってゆく。
 昼間の寝室は、夜分とは全く異った感じである。もうそこには、なま温い息もうようよした肉体もない。むうっとする人いきれが全くない。寝台の裾の方に畳み積まれてる布団が如何に汚れていようと、棚の上の雑用品が如何に乱雑に散らかっていようと、釘にぶら下ってる着物が如何に垢じみていようと、血の気の多い肉体の主人公が脱ぎ去られた跡は、ただ古ぼけた無生の廃墟に過ぎない。その廃墟の上を、開け放された窓から軽やかな風が流れ来り流れ去ってゆく。その微風の跡を追って、日の光がひたひたと寄せてくる。
 窓の向うの低い隣家の屋根の彼方に、或る半宗教的な女学校の建物が見える。その窓にずらりと、真白な顔が並ぶこともある。時とすると、それらの顔全体が一団となって、美しい声で合唱を初める。

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かすみのたなびく
はるの野べに
ほほえむすみれの
ゆかしきかな

なつくさしげれる
おかのうえに
さけるなでしこの
やさしきかな

人の世のためし
いかにもあれ
神とともにある
身ぞやすけき
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 和田弁太郎はその歌声に耳を傾け、それら一団の顔を眺める。そして彼女等の生活を想うのである。
 そして彼の頭には自然と一つの比喩が浮んでくる。若い男子の共同生活が蚯蚓の群居であるとすれば、若い女子の共同生活は蝶の群居である。蚯蚓の群居は如何にねちねちした息苦しい、そして卑俗的な窮屈なものであることか。それに反して蝶の群居は如何に爽かな香《かぐ》わしい、そして高踏的な自由なものであることか。とそんな風に彼は感ずる。蚯蚓の鈍感な皮膚と根強い生活力、蝶の敏感な触角と脆い生活力、それを彼は知らない。然し無知は空想を妨げない。彼は彼女等処女の共同生活を想像してみて、それを自分達の共同生活と――自分が感じてる共同生活と比べてみる。
 歌の合唱はまた繰返される。

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かすみのたなびく
はるの野べに
ほほえむすみれの
ゆかしきかな
…………………
[#ここで字下げ終わり]

 清らかな涼しい声が日光に震えて、庭の樹々の若葉に滑っている窓から見ると、その樹々の梢の方だけが宙に浮いて、柔かな青空に懐かれている。
 空には、霞ともつかない薄雲がゆったりとかかっている。見つめているといつしか消えて、青々とした深い大空の肌がじかに感ぜられる。日の光が強くなる。若葉が光ってくる。
 若葉の光りに、和田弁太郎は咽せ返る。椿の固い葉までが光ってくる……。
 大きな椿、その真黒な実、それを竿の先で叩き落すのである。お梅がはちきれそうな笑顔をしている。椿の実を叩き潰して、その汁で髪を洗うと、毛に艶が出る、とそんなことを云う。竿をもてあつかって、汗ばんだ額を拭きながら、あたりを窺う。誰もいない。お梅が一人、眼の前で笑っている。
 何という強健な、だが、息苦しい……抱擁だろう。そんなことを和田弁太郎は追想する……休暇の終りの僅かな日数、それから出発。お梅は今もやはり家で働いているかしら……。彼女は恐らく手紙も書けまい。こちらからも手紙は出せない。そしてもうあれきりのことだ。何という強健な、だが、息苦しい……。
 そこで和田弁太郎は眉
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