、力無い声の調子だった。
 十二年の大地震に痛んだままの古い建物である。塗り直した壁にもまだ隙間があり、柱は心持ち曲っている。眼に見えない肝心のところ、柱や梁の※[#「木+吶のつくり」、第3水準1−85−54]《ほぞ》はゆるんでるに違いない。死なば皆諸共、一度にぐしゃりと潰れるまでである。
 言葉が途切れて、どこからか犬の遠吠が聞える。しいんとして蒸暑い。
 そのうちに、ひょいと一人が寝台から滑り出て、黙って出て行こうとする。
「おい待てよ、僕も行くから。」
「うむ。」
 それきり誰も何とも云わない。二人が便所から戻ってきても、誰も何とも云わない。ぐっすり眠ってしまう。
 狭い室内で、息と息とが交り合って、朝の六時まで雑居である。
 けれど、そういうことが二三度あると、昼間意識のはっきりしてる時に、誰かが、死なば諸共の具体的な提議をした。夜中に大地震があったら、真中の寝台の下にもぐり込むこと、そしてなお余裕があったら、左列の真中のから右列の真中のに這い込んで、六人一つ処にかたまること。
 和田弁太郎の寝台は、一番端の窓際にあった。だが、皆が這い込む筈の寝台は、すぐ右側の隣りだった。
 そこには、脂ぎって肥満した、多少愚鈍な慷慨悲憤癖のある男が寝ている。その寝床の下に六人の者が駆け込んで、寝間着のまま一団となる。押し合い抱き合いうようよして……。
 然し、大地震なんか全く千載一遇だから、滅多にあるものではない。とは云え、ないとも限らない。大気の淀んだ、むーっとする春の夜である。恐らく月の色まで変ってるかも知れない。
 和田弁太郎は、仰向の次には右を下にして寝るのが衛生的だと聞いていた。それをむりに、隣りの寝台を鼻先から避けるために、左を下にして寝るのである。そのせいか、猶一層変に寝苦しい。
 誰かがむにゃむにゃと口の中で寝言をいう。鼾の音が起ったり消えたりする。またカフェーで酒をのんできた奴だろう。足をばたりとさせる者がある。電車にも乗らずに徒歩通学をしてる苦学生だろう。そして至るところに、低い単調な、而も天井まで室一杯拡がろうとするかのような、永遠の寝息の音……。
 室の中のむーっとした空気が、六人の男の口から、幾度交る代る吐き出され吸いこまれてることだろう。然し窓を開け放すことは厳禁されている。戸外の新鮮な夜気は睡眠者の喉を害するそうである。
 和田弁太郎は起き上ろうとする。が、それがやはり夢現である。頭の一部がしびれて、そこが大きくふくれ上り、千斤の重みの綿みたいな感じになる。ふわりとしていて、不可抗力的に重い。その中へ、かすかな意識が引きずりこまれてゆく。
 身動き一つすることが出来ない。息苦しくなる。眼には見えないが、そこらに眠ってる人数《ひとかず》が幾何級数的に殖えてゆく。その無数の口から吐き出される息が、積り積って、なま温くのしかかってくる。穢らわしい擽ったい感触である。いつまでも動かない……。
 その感触がどこか遠くで、粘りっこい笑い方をしている。お梅だ。手の皮膚のざらざらした、土くさい、力強いぼってりした腕で、じりじり緊めつけてくる……。
 そこで和田弁太郎は眼を覚す。ぐっしょり汗をかいている。が、室内の空気も同じように汗をかいている。どんな不潔なものにもいきなりしゃぶりつきそうな、面皰顔の唇の厚い口、その六つの口から吐き出される息が、濛々と立罩めている。櫺子窓からさす廊下の明りがぼーっと曇っている。
 そうなると益々眠れなくなる。何かしら汚い赤黒いものが、身体中にのたうち廻っている。
 そして和田弁太郎は屡々寝室をぬけ出すのである。そして彼は考えるのである。――不思議な現象だ。俺は今迄、この寄宿舎の共同生活が少しも嫌ではなかった。それが、休暇に郷里へ帰ってから、俄に嫌で堪らなくなった。殊に夜の同室就寝は我慢が出来ない。何故だ。お梅の肉体を知ったせいだろうか。いや、お梅と俺との関係は、全く没精神的な汚らわしいものだ。友人との共同生活が厭わしくなるほど、それほど純なものでもなければ深いものでもない。友人との共同生活よりももっと、肉体的な汗ばんだものだ。してみると、この嫌厭は、何故だ、何故だ。
 和田弁太郎は、考えあぐんで、そしてどうにもならなくて、益々蒼ざめていく。

 そこで小説家は一寸話を切りました。そして、どうだろう、という工合に批評家の顔を見ました。
「ふうむ。」と批評家は暫くたって云いました。「一寸面白いようでもあるが、何だかよく分らないところもあるようだね。何と云ったらよいか、こう……余りに特殊な心理なので、そして心理だけなので、一般には向かないかも知れないね。」
「へえー、そうかね。」と小説家は答えました。「僕にはまた、そこが一番大切なところなんだがね。……余り特殊な心理だけで……なるほど……。」

前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング