活に対する嫌悪や、お梅の苦々《にがにが》しい面も誘惑的な追想や、女学生の歌をききながら夢想する空漠たる憧憬や、其他いろんなものが重なり合って、いっそもっともぐってやれ、自分自身を泥の中につき落してやれ、とそういった突発的な気持になることがある。そういう時彼は、戦闘的な気勢で、皆に交ってカフェーへ行く。
 それは、彼等貧しい寄宿学生にふさわしいカフェーだった。天井の低い室に古ぼけた木の卓子、そして、安くて豊富な料理も出来る。その上、お喜代という女給がいる。
 顔立は一寸整っているが、皮膚のまのびた女である。ひどく肥満していたのが、皮膚はそのままで中の肉だけしぼみ落ちたかのように、肉附に妙にしまりがない。だから頬辺ばかりを眺めると、二十歳以下なのが二十五六歳にも見える。然し唇と※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]とだけは、みっちり実《み》がはいっている。
 或る朝、誰かがカフェーの前を通りかかった時、彼女は丁度掃除を初めていたが、田舎の女がするように、着物の後ろ襟にハンケチをさしはさんで、襟垢を防いでいた。それが彼女によく似合っていた。発見者は喜んだ。伝え聞いた一同も喜んだ。皆田舎出の青年である。そして中に一人剽軽な者がいて、刺繍入りの大きな絹ハンケチを彼女に贈ったところが、それを頸飾りみたいに首へ巻き縮らしたのが、彼女に不思議とよく似合った。
「いよう、素敵、素敵。公爵令嬢といったところだ。」
 彼等は手を叩いて喜んだ。
 彼女は少し酒が飲めた。酔ってくると、絹ハンケチを首に巻き縮らして、勿体ぶった様子で出て来る。そして皆の方へ後手を一寸差伸して、上目がちに会釈をしてみせる。
 彼女は時々活動写真を見にゆくのである。
 がそれ以外には、彼女は普通の至極平凡な女給である。
「ねえ、あたしまだ都々逸《どどいつ》がよく歌えないの。教えて頂戴。」
 気持のこもらない眼付で、声の調子だけに媚びを含めて、誘いかけてくる。
「止せよ、都々逸なんか。それよりか、初めよう、例のを。」
 仲間の一人が休暇中大島へ行って大島節を輸入してきたのである。
 誰か一人が音頭をとる。

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わたしゃ大島
御神火そだちよ
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 初めの一句は調子外れで、後はどうにか歌ってのける。その次は皆の合唱である。

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胸にゃ煙が
絶えやせぬ
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