をしかめるのである。何かしら不気味な汚れたものにぶつかった気持である。
 いつのまにか、向うの窓には白い顔の群が消えてしまっている。けれど空耳かしら、合唱の歌声はまだその辺の空中に残っている。清らかな香わしい杳かなものに、心が囚えられてゆく。
 そしてやはりいつまでも、和田弁太郎は夢想に耽るのである。睡眠不足の熱っぽい頭は、明確な観照をぼかして、そういう馬鹿げた夢想に適するのである。
 そういう彼を、不意に同室の誰かが襲うことがある。
「おい、どうしたんだ。」とぽんと肩を叩いて、皮肉な微笑を馴れ馴れしく見せつける。「また例の、プラトニック・ラヴかね。もう誰もいやしないじゃないか。」
 和田弁太郎は既に先刻から、向うの建物の窓に誰もいないことを知っている。然し明らさまに云われると、おもわずかっとなる。プラトニック・ラヴという言葉が第一気に喰わないのである。カフェーなんかに入りびたってるくせに、という腹もある。
 もし友人がそれ以上突っこんでゆくならば、和田弁太郎は眼をぎらつかせながら、本当に飛びかかって殴りつけかねない様子をする。で彼を揶揄するには、他の機会を俟たなければならない。
 平素は大抵彼は黙々として元気がないのである。不機嫌そうに顔をしかめて、意気消沈したもののようである。
 実際彼は不機嫌で力がなく蒼ざめている。それでなお屡々、二階の窓際に坐りにゆく。

 小説家は一寸話を切って、どうだろう、という工合にまた批評家の顔を見ました。
「それは一寸と面白い。」と批評家は云いました。
「そうかねえ。」
 気乗りしない調子で小説家は答えて、余り嬉しそうな顔もしませんでした。それに調子を合せるように批評家は更に云いました。
「面白い。が然し、動きがないね。一つの情景《シーン》だけで……勿論その情景は、窓に坐って女学生の讃美歌の合唱をききながら田舎の女を追想するあたりは、面白いには面白いが、それだけじゃどうも、少し物足りなかないかしら……。」
「僕もそういう気がする。然し動きはこれからなんだ。」
 そして小説家は、第三の「彼は彼女に接吻した。」を話しだしました。

 寄宿舎の近くに、安っぽいカフェーが一つあった。彼等はよくそこへ酒をのみに行った。和田弁太郎も時々ついていった。
 然し彼がそこへ行くのは、皆とすこし違って、或る一種の反抗的な気勢からである。寄宿舎の共存生
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