春
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夢現《ゆめうつつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+吶のつくり」、第3水準1−85−54]
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五月初旬の夜です。或るカフェーの隅っこで、髪の毛の長い痩せた二人の男が酒をのんでいました。一人は専門の小説家で、一人は専門の文芸批評家です。小説家の方は、これから取掛ろうとする創作に思い悩んでいるし、批評家の方は、面白い批評の材料はないものかと考え悩んでいる、そういった気持から、街路で出逢ったのが別れ難くなり、カフェーにはいってお茶でも一杯飲むつもりなのが、場所柄にもなくつい酒となったような有様です。
で、二人はそこで、豆をかじりながら酒を飲んでいました。そして話は次第に専門の事柄に落ちていきました。女中はつまらなそうに向うへ遠のきました。他に客の少ない半端な時間でした。二人は落付いてゆっくり話すことが出来ました。咲き後れた葉桜の大きな一枝が、横手の卓子にぽつねんとしていました。
「早速書かなくちゃならないものが一つあるんだけれど、どうもうまくまとまらなくて困ってる。」と小説家は云い出しました。
「ほう。」と批評家は眼を光らしました。
そして専門は専門だけに、小説家がその考えてる小説の話をし、批評家がそれを聞いてやることとなりました。
ところで、その小説というのは、小説家が或る青年からじかに聞いた話でした。そして小説家の頭の中で、三つの要点に別たれていました。――一、彼は蒼ざめていた。二、彼は窓際に坐っていた。三、彼は彼女に接吻した。――三から先がまだあるのですが、そこが小説家にはどうもまとまりかねたのです。
「では始めから順々に話してみ給いよ。」と批評家は云いました。
「うむ聞いてくれよ。」
そこで小説家は、「彼は蒼ざめていた」を話し初めました。
和田弁太郎は次第に蒼ざめていった。顔色ばかりではなく全体が蒼ざめていった。昼間もそうであるが、殊に夜はひどかった。
板と硝子とで密閉されてる室の中に、六人の青年が眠るのである――規定では夜十時から午前六時まで。
春の夜の屋内の空気は、それ自身既になま温い。昼間吸いこまれた日光の余温と、垢や脂にむれてる布団のい
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