持ちさえないのだった。家人の誰とも口を利かなかった。母のない二人の子供にさえ口を利かなかった。そしてぼんやり時を過した。殆んど完全に何もせず何も考えない時間だった。
 夜になって、ちょっと来いの結び文が届けられても、彼は何の表情も浮べなかった。然し、やがて出かけて行った。美津子のところへ行くのも行かないのも、彼にとっては結局同じことだったのだ。
 炬燵に火が入ってるので山田はそこにもぐり込んで寝そべった。
「なにをしていらしたの。」
 いつも同じ挨拶だ。彼はにやりと無意味に笑った。
 柱掛けの一輪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しに、もう蕾の開きかけた桜の一枝が投げ込んであった。山田はそれをぼんやり眺めた。
「もう花もじきですわね。青葉もじきですわね。」
「ええ。」
「花はどうでもいいけれど、新緑を見にちょっと旅がしたいわ。」
「そう。」
「新緑を見に、一泊か二泊、どこかへ連れていって下さると、お約束だったでしょう。」
「ええ。」
「ほんとに連れていって下さるの。」
「ええ。」
「いつ。」
「ええ。」
「それとも、旅はお嫌なの。」
「ええ。」

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