室の天井裏に、ギーイ、ギーイと、大きな音が起るようになった。巨大な箱の中で木材を丸鋸で挽くような音である。風の吹く時に限るのだが、それも、余り強くなく弱くない風で、軒端に正面から吹きつける場合だけである。
 音の原因は、誰が見調べても一向に分らなかった。古い家屋だけれど軒端に穴があいてるのではなかった。然しどこからか天井裏に風が吹き入ってそこで太鼓やバイオリンの胴体みたいな作用をし、大きく鳴り響くのであろうか。または、ぴんと張りつめた薄板のようなものがどこかにあって、それが風に鳴るのであろうか。先ずそんなことしか考えられなかった。いずれ大工さんにでも頼んで調べて貰おう、ということになったが、それが延び延びになっている。
 そして或る程度の強さの風が正面から吹きつける場合、白昼でも深夜でも、時を択ばず、天井裏に、ギーイ、ギーイと、音が響くのだった。
 山田は眉をひそめた。
「まだなおさないんですか。よく気味わるくありませんね。」
「だって、べつに怪しいこともないんですもの。」
 小父さんが、押入の天井板を押し上げて覗いてみたが、どこにも異状はなかったそうである。
「怪しいことがなくったって、あんなところで音がするのは、たしかにへんですよ。」
 美津子は眼尻で笑った。
「手を見せてごらんなさい。」
「手……。」
「それ、いつかの……。」
「もういいんです。」
「なおりましたでしょう。天井の音だって、いまになおりますよ。」
 彼女は山田の手を執って、その手首を見調べた。もうどこにも斑点はなかった。先日まで、そこに紫色の斑点が二つあったのだ。それを見つけた時、山田はいやな気持ちになった。紫斑病という言葉を聞きかじっていたので、斑点を仔細に調べ、それから腕や腿をめくって眺め、風呂にはいる時にも体のあちこちを眺めた。どこにも紫色の斑点はなかった。ただ手首に二つだけ。物にぶっつけた記憶もなかったし、虫に刺された覚えもなかった。
 そして美津子に逢った時、彼女はいきなり彼の手首を見た。
「あ、御免なさい。」
 山田には何のことか分らなかったが、言われてみて思い出した。
 美津子と酒を飲んでいて、もうだいぶ酔っ払ってた時のことだ。小母さんの娘の正子が、動物づくし、魚づくし、昆虫づくしなど、きれいな絵本を持って来て見せた。
「おばちゃんに買ってもらったの。」
 おばちゃんとは美津子のことだ。
 科学的にも正確らしいそれらの絵本を、山田は正子と一緒に楽しく眺めた。たどたどしい読書に耽ってる正子よりも、きれいな絵本に見入ってる正子の方が、清らかで美しかった。その絵本を買ってやったのは美津子だ。正子の額が月光を浴びたように澄んでいた。山田は絵本を近々と覗くふりをして、彼女の方に顔を寄せ、いきなりその頭を抱いて、額にキスしてやった。唇に清冽な感じが来た。正子はしばしじっとしていたが[#「じっとしていたが」は底本では「じっとしていたか」]、首をすくめて笑い、絵本をかかえて逃げていった。
「ばかね。ばか……。」
 美津子が睥むまねをして、山田の手首をきゅっと抓った。
「あんな熱心なキス、初めて見たわ。わたしの額にも、さあ、してごらんなさい。」
 そして彼女はまた、彼の手首をきゅっと抓った。
 嫉妬でも非難でもない証拠には、彼女は笑っていた。だから、山田も忘れていたのだ。然し手首には、紫色の斑点が二つ残った。
 それも、数日でなおってしまったが、美津子の室の天井裏の音は、風の吹き工合によって、いつでも起った。
 その音に怪しいことはないとしても、美津子自身、だんだん痩せ窶れてゆくがようだった。額の小皺に汗をにじませてることがあり、夜は寝汗をかくことがあると打ち明けた。
「医者に診てもらいなさいよ。」
「大丈夫……。気候のせいでしょう。」
「それとも、天井裏の怪しい音のせいかも知れない。」
 その怪しい音ばかりでなく、山田はほかの物音にも、気を惹かれていた。それは、美津子のところにいる時よりも、自宅にいる時のことが多かった。
 夜陰深更、時として、表の街路に、馬蹄の音が聞えた。ふと眼を覚して耳を傾けると、たしかに馬の足音だった。それも、騎馬の威勢よい速足ではない。何か重い車でも引いて、遠い道を疲れながらこっとりこっとり歩いてる音だ。
 交通に便利な街道筋なら、夜中でも、トラックが走り、荷馬車が通うこともある。然しこの辺の街路は、日が暮れると共にひっそりしてしまい、朝日がだいぶ昇るまで大きな物は通らない。地の利が悪いのだ。それなのに、三更を過ぎた深夜、重い車を引いた馬が、こっとりこっとり歩いてゆくのだった。いったい、どういう荷物を引いてるのであろうか。何処から来て、何処へ行くのであろうか。敷石の上に蹄鉄の火花を散らすこともなく、もう疲れきって頭を垂れ、眼をしょんぼ
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