持ちさえないのだった。家人の誰とも口を利かなかった。母のない二人の子供にさえ口を利かなかった。そしてぼんやり時を過した。殆んど完全に何もせず何も考えない時間だった。
夜になって、ちょっと来いの結び文が届けられても、彼は何の表情も浮べなかった。然し、やがて出かけて行った。美津子のところへ行くのも行かないのも、彼にとっては結局同じことだったのだ。
炬燵に火が入ってるので山田はそこにもぐり込んで寝そべった。
「なにをしていらしたの。」
いつも同じ挨拶だ。彼はにやりと無意味に笑った。
柱掛けの一輪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しに、もう蕾の開きかけた桜の一枝が投げ込んであった。山田はそれをぼんやり眺めた。
「もう花もじきですわね。青葉もじきですわね。」
「ええ。」
「花はどうでもいいけれど、新緑を見にちょっと旅がしたいわ。」
「そう。」
「新緑を見に、一泊か二泊、どこかへ連れていって下さると、お約束だったでしょう。」
「ええ。」
「ほんとに連れていって下さるの。」
「ええ。」
「いつ。」
「ええ。」
「それとも、旅はお嫌なの。」
「ええ。」
「はっきりしてよ。連れていって下さるか、下さらないか、どちらですの。」
「ええ。」
「わたしほんとに行きたいわ。新緑を眺めて、一日か二日、ゆっくり考えたら、わたしたちの前途も、ほんとに開けてくるような気がするの。だから、行きましょうよ。」
「ええ。」
「いつにしましょうか。わたしの方はいつでも宜しいの。」
「ええ。」
美津子はしばらく口を噤んだ。
「あ、分った。今日は、あなたの陽が陰ってるのね。」
「そうですよ。陽が陰ってる時は、僕は誰にも逢いたくないし、誰とも口を利きたくないんです。」
山田は半身を起した。
「黙って酒でも飲むのが一番いい。」
「それでは、わたしはどうすればいいの。」
「一緒に飲むんですね。」
自分から言い出しておいて、山田は眼が覚めたように気付いたのである。一緒に酔っ払ったり、何か愛の保証を求め合ったり、口舌をしたり、それだけが二人の生活だったのか。もうそんなことは乗り超えてる筈ではなかったか。それなら、乗り超えた先に何があるのか。
山田は新らしいものを見るような気持ちで眺めた。彼女の細そりした体躯、薄化粧の顔に長く墨を引いた眉、眼尻でしばしば笑う眼、それから、室の中のこじんまりした調度品、衣桁にかけてある衣類、ぽかぽか火をおこしてある炬燵……。その炬燵に彼女がいつもかじりついているように、山田は彼女の体温に寄り縋ってばかりいたのだ。
酒はたいてい、彼女の手許に用意がしてあった。仕度が出来るまで山用はトランプを借りて独り占いを始めた。執拗に繰り返した。
女とは退屈なものだ。愛情とは退屈なものだ。然しいったい、退屈でないものが世の中に何があるか。山田はいつまでも占いをやめなかった。
「もう宜しいじゃありませんか。」
「いや、思う通りのものが出来るまで、夜通しでも続けます。」
「饒舌るのが煩いから……。そんなら、わたし黙ってますよ。」
黙りこくって酒を飲んだ。
山田はふいに顔を挙げて言った。
「新緑の旅、きっと行きますよ。」
「あら、そんな占いなんかできめたこと、わたしいやだわ。」
「占いは別のことです。実は、一週間ばかり旅行しなければなりません。新緑の旅は、その後でいいでしょう。」
「どこへいらっしゃるの。」
「水戸方面、それから真直に東へ……。」
「まっすぐ東へ行ったら、太平洋じゃありませんか。」
「そうです、海の中です。」
「でたらめを仰言ると、また……。」
彼女は抓るまねをしたが、山田は構わず占いを続けた。だが、でたらめを言ったのではなかった。汽車に乗って真直に行く……いや汽車が真直に走ってゆく。水戸から先、真直に東へ走ったら、太平洋にはいり、海底へ没するだろう。没してもなお、真直にどこまでも行くんだ。ちょっと来いも何もかも、もう間に合わないのだ。
そこに、遠い遠い疎隔があった。ただ、それに耐え得られるか。
山田はトランプを投げ出して、立ち上った。
「もう帰ります。」
美津子は酔いの廻った黒光りする眼で、じっと山田を眺めた。
「帰りますよ。」
「ええどうぞ。」
彼女が怒ってたって構やしない。もう十二時近くだ。山田はふらふらする足で出て行った。粗らな小店の表戸ももう締め切ってあった。かすかに春草の匂いのする荒野で、山田は小便をした。それから少し行くと、後から美津子が駆けてきた。
「あなた、怒ったの。なにか気に障ることがあったら、御免なさい。」
「怒ってやしません。」
「でも、何か考えていらっしゃるんでしょう。真直に海の中へ入るなんて……。考えちゃいや。ね、もう何も考えないことにするの。」
山田は黙っ
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