りと開いて、こっとりこっとり歩いてゆく。
 それを何度も山田は聞いた。枕の上で耳を澄ましていると、馬の足音はやがて遠ざかり、深い夜陰の彼方に没してしまい、山田も蒲団の中に頭を埋める。そして朝になって、思い出してみても、それが果して現実だったのか、夢だったのか判然としなかった。然しいずれにしても、心にはっきり残ってることに違いはなかった。
 これに比べると、太鼓の音はもっと明瞭だった。もう仄白く夜が明けかかる頃、太鼓の音が響いてきた。近くの神社からであろうか、個人の邸宅からであろうか、どこからか、太鼓の音が枕に通ってくるのである。初めはゆるやかに、ドーン、ドーンと、それから次第に急に、ドン、ドン、ドン、ドン……いつまでも単調に続く。
 最初聞いた時、山田は自分の空耳かと疑った。然し度重なるにつれて、確かに太鼓の音だということが分り、その確かさのため却って気に留めず、また眠りにはいった。それでも時折、眼を覚して聞いた。毎日のことではなく、日を置いて聞くと、太鼓の音は如何にも気紛れなものに思えた。最も確実な夜行列車の音も、時折に聞けば、気紛れなものに思えるのだ。いったい誰が、何のために、夜明け頃、太鼓など叩いているのか。気紛れなばかりでなく、その音は人をばかにしたものだった。ドン、ドン、ドン、ドン……いつまで単調に続くのか。山田はもう眠れなくなることがあった。それでもなかなか寝床から起き上りはしなかった。
 美津子は小首を傾げて考えた。
「そんな、馬の足音だの、太鼓の音だの、わたしは聞いたことがありませんわ。」
「それはあなたが寝坊だからでしょう。」
「あら、わたし、あなたより眼ざとい方じゃありませんか。」
「それでは、鈍感だからでしょう。」
 彼女はじっと山田を眺めて、真剣な眼付きになった。
「あなた、この頃、どうかなすったんじゃありませんの。なんだか、神経衰弱の気味みたいで、心配だわ。」
「神経衰弱か……。」
 山田はゆっくり繰り返して大きく欠伸をした。眼に涙が滲んだ。
「ね、はっきり言って下さらない。わたしと一緒にいると、退屈なさるんでしょう。」
「どうしてですか。」
「それをお聞きしてるんじゃありませんか。きっと、わたしはあなたにとって、退屈な女なんでしょう。」
「いや、ちっとも退屈しませんよ。第一……いつもいつも、ちょっと来いだから。」
 美津子は眼尻で笑った。
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング