とだ。
科学的にも正確らしいそれらの絵本を、山田は正子と一緒に楽しく眺めた。たどたどしい読書に耽ってる正子よりも、きれいな絵本に見入ってる正子の方が、清らかで美しかった。その絵本を買ってやったのは美津子だ。正子の額が月光を浴びたように澄んでいた。山田は絵本を近々と覗くふりをして、彼女の方に顔を寄せ、いきなりその頭を抱いて、額にキスしてやった。唇に清冽な感じが来た。正子はしばしじっとしていたが[#「じっとしていたが」は底本では「じっとしていたか」]、首をすくめて笑い、絵本をかかえて逃げていった。
「ばかね。ばか……。」
美津子が睥むまねをして、山田の手首をきゅっと抓った。
「あんな熱心なキス、初めて見たわ。わたしの額にも、さあ、してごらんなさい。」
そして彼女はまた、彼の手首をきゅっと抓った。
嫉妬でも非難でもない証拠には、彼女は笑っていた。だから、山田も忘れていたのだ。然し手首には、紫色の斑点が二つ残った。
それも、数日でなおってしまったが、美津子の室の天井裏の音は、風の吹き工合によって、いつでも起った。
その音に怪しいことはないとしても、美津子自身、だんだん痩せ窶れてゆくがようだった。額の小皺に汗をにじませてることがあり、夜は寝汗をかくことがあると打ち明けた。
「医者に診てもらいなさいよ。」
「大丈夫……。気候のせいでしょう。」
「それとも、天井裏の怪しい音のせいかも知れない。」
その怪しい音ばかりでなく、山田はほかの物音にも、気を惹かれていた。それは、美津子のところにいる時よりも、自宅にいる時のことが多かった。
夜陰深更、時として、表の街路に、馬蹄の音が聞えた。ふと眼を覚して耳を傾けると、たしかに馬の足音だった。それも、騎馬の威勢よい速足ではない。何か重い車でも引いて、遠い道を疲れながらこっとりこっとり歩いてる音だ。
交通に便利な街道筋なら、夜中でも、トラックが走り、荷馬車が通うこともある。然しこの辺の街路は、日が暮れると共にひっそりしてしまい、朝日がだいぶ昇るまで大きな物は通らない。地の利が悪いのだ。それなのに、三更を過ぎた深夜、重い車を引いた馬が、こっとりこっとり歩いてゆくのだった。いったい、どういう荷物を引いてるのであろうか。何処から来て、何処へ行くのであろうか。敷石の上に蹄鉄の火花を散らすこともなく、もう疲れきって頭を垂れ、眼をしょんぼ
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