雲がかけて、細い雨が音もなく落ち初めると、彼は慌しく自分の室に戻ってゆき、いつまでもうっとりと考え込む――片恋のままで別れた彼女のことを、心弱さのために我と自ら身を退いて、いつしか音信も途絶えてしまった今、ふっと切なく思い出されて、如何したものだろうかと、やるせない迷いのうちに、空想の輪を十重二十重に織り出して、彼女と自分とをその中に絡め溺らしてゆく。
それらのものの上に、夜の露が繁く結ばれて、清浄な朝日の光が、澄みきった爽かな世界を齎してくる。萠え出たばかりの瑞々しい花や葉や、眼覚めたばかりの汚点のない魂が、一度にぞっとおののいて、眼に見えない輝しいもの――神とも云えるもの――の方へ、おずおずと瞳を挙げる。清らかな求道の園である。然しそれはただ一瞬のことである。間もなく凡ての瞳が、春の息吹きにふーっと曇ってくる。そして、神のない地上の力弱い楽園が――刹那々々の歓楽と其処から来る哀愁とが、凡てを包み込んでいく。
私の斯かる春の幻は、可なり不安で揺ぎ易い。実際、春は余りに慌しい。私一個の感じから云えば、桜の花の開きそめる四月上旬までは、まだ多分に冬であるし、木の葉の出揃った新緑の頃は
前へ
次へ
全7ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング