「あら!」と云って喜代子は同棲以前の通りの身振をした。「……だって、これっきり着物はないんですもの。それに、始終出歩いてますから。」
「始終出歩いてるって……。」
「ええ、あたし勉強を初めたんですの、フランス語の勉強を。毎週三度ずつ教わりに行ってるんですの。」
「フランス語の勉強を初めたって……そんなものを何にするのかね。」
「毎日用がないものですから、笹部にすすめられてやってみましたの。……でも、フランス語を知っていなければ、本当によい詩は分らないんですもの。」
「フランス語を知っていなければよい詩が分らない……そんなものかな。まあ……兎に角感心だね。」
「ですから、あの……聞いて下さいますの。笹部もどんなに喜ぶでしょう。」
「いや、そう一人ぎめにしたって……少し考えなくちゃあね。」
「だって何にも考えることなんか……ほんとにあたし達困ってるんですの。それが出来なければ、どうにもならないんですから。」
「ほんとうかね。」
「ええ。あたし叔父さまには、何にも隠してや……嘘を云ってやしませんわ。」
 喜代子の美しい顔が引きしまって、それから渋《しか》めた泣き顔になりそうなのを、中野さんは喫驚したように眺めた。
 だが、笹部の奴、あの大きな手をして……。
 中野さんはふいに真面目な調子で云った。
「場合によっては、わたしが引受けてやらんこともないが、一度笹部君と一緒に来てごらん。よく笹部君から話を聞いてからのことにしよう。お前達のことについては、わたしにも或る種の責任があるように思えるんでね。」
「笹部と一緒に……そんなことを……。」
「遠慮することはないさ。……お前を信用しないというのではないが、一寸笹部君にも逢っておきたいんでね。」
「だって、叔父さまは、あたし一人ではいけないと仰言るんですの。」
「そうじゃない。誤解しちゃあ困るよ。余りお前達が寄りつかないから、こんなことでも口実にしないとね。」
「じゃ聞いて下すって。」
「まあそれからのことさ。明日の晩はどうだね。」
「ええ。」
 中野さんは改めて葉巻に火をつけて、ぱっぱっと吹かした。

 俺は改めてゆっくり彼奴の顔を見直してやらなければ……喜代子のために。
 そんな風な考え方をしながら、中野さんはいつもより長く晩酌の餉台に向っていた。
 前夜の雪が降り積って、しいんとした寒い晩だった。子供達はあちらの室で炬燵
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