が、中野さんはひどく不機嫌になった。不機嫌を通り越して苛立たしい気持にまでなった。
「あんな奴が喜代子を……。」
独語しながら、恐ろしい顔付で唇を噛んだ。
十二月にはいって急に寒くなった。十日頃から、降りきれないでいる陰欝な雪空が毎日続いた。
その或る日、中野さんに会社へ電話がかかってきた。笹部という名前を聞いて、中野さんは一寸思い出せなかったが、それと分ると、急いで受話器を耳にあてた。相手は喜代子だった。至急お願いがあるが、今晩伺ってもよいかということだった。よろしいと答えると、電話はすぐに切れた。
中野さんは眉をひそめた。用件の内容が更に見当つかなかった。夕方からぽつりぽつりと、雨交りの綿のようなのが降り初めた。
その中を、喜代子は少し遅く八時半頃やって来た。九月の時よりも、雀斑は少し多くなったように見えたが、寒気に触れた頬の皮膚が澄んで、一層美しく見えた。
「叔父さまに、折入ってお願いがあって、参りましたの。」
その折入ってなどという言葉と、それにつれての物腰とが、中野さんの注意を惹いた。
「何だよ、話してごらん。」
「実はこんなことを、叔父さまにお願いは出来ないんですけれど……。」
そして喜代子が途切れ途切れに云い出した願いというのは、二百円借してほしいということだった。――笹部と同棲してから二階をかりてる、そこの主人一家が、二十五日頃までに大阪へ引上げてしまう。所が二ヶ月ばかり下宿料の借りが出来てるので、是非ともそれを払わなければならないし、よそへ引越すのにもいろいろ費用がかかるし、正月の仕度も少ししなければならない。どうしても二百円ばかり足りないから、笹部が方々奔走したけれど、年末のことで思うようにゆかないのだそうだった。
「今更自分の家へも頼みに行けませんし、また笹部も、私達のことから国の家とは少し仲違いになってるものですから、ほんとに困ってしまいましたの。叔父さまに助けて頂くと、一生御恩に着ますわ。図々しいお願いですけれど、どうにもならなくなったんですもの。」
中野さんは喜代子の美しい眉と頬の皮膚とを見ながら、敷島の煙をふーっと吐き出した。
「ほほう……。」
それから不意に、喜代子の派手な着物が眼についた。
「だが……お前の様子を見ると、さほど困っていそうもないじゃないか。そんな……しゃれた身装《みなり》をしてるところを見ると。」
前へ
次へ
全13ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング