秋の気魄
豊島与志雄
秋と云えば、人は直ちに紅葉を連想する。然しながら、紅葉そのものは秋の本質とは可なりに縁遠いことを、私は思わずにはいられない。
楓の赤色から銀杏の黄色に至るまでのさまざまな紅葉の色彩は、その色彩からじかに来る感じは、しみじみとした専念の秋の感じとは、よほど距っている。都会にいてはそうでもないけれど、一歩田舎に踏み出してみると、山裾の木立の紅葉や、田畑の熟しきった黄色い農作物や、赤々とさす日脚などは、それをそのまま抽出して観ずる時には、寧ろ残暑に属すべきもので、真の秋の領域ではない。試みに、吾々の住宅や居室を、それらの色彩の何れかで塗りつぶすとしたならば、吾々の生活気分は、可なりに落付のないものとなることであろう。そしてこの落付のなさは、秋の頼りない気分とは、全く別種のものである。
紅葉に秋の気分を与うるものは、紅葉のうちの活力の欠如である。私は茲に、緑葉が何故に紅葉するかという、科学的の説明を持出したくはない。ただ紅葉に活力のないことだけを云いたい。かりに、野山の紅葉が、あのままの色彩で生々と生育する世界を想像してみれば、それが秋の世界だとは誰も云い得ないで
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