秋は淋しい、というのは真実である。秋はあらゆるものの外皮を、不用なものも必要なものも、凡ての外皮を、自ら振い落さしめて、万物を裸のままでつっ立たせる。秋を淋しくないと云う者は、衣服を脱いで真裸でつっ立つ折の、妙に佗しい頼り無い淋しさを、鈍感のためにか或は厚顔無恥のためにか、身に感じないていの者であるに相違ない。
かかる落葉の――剥脱の――世界に、更に特殊の気味を添えるものは、淡いながらに鋭い日の光である。やや南方に傾いた日脚と北から来る冷かな微風との為に、その光は弱く淡くなりながらも、極度に澄みきった空と大気とのために、非常に鋭くじかに射してくる。宛も真空《しんくう》の中に於けるがように、何物にも遮らるることのないその光が、如何にくっきりとした日向と影とを、地面の上に投げてるかを見る時、人は殊に深く秋を感ぜさせられる。落葉の上の木立の影、田の畝の草葉の影、野の上の鳥の影、そして狭苦しい都会の中にあっても、苔生した庭の上の軒影、障子にさす植込の枝影、それらのものが、明るい日向ときっぱり区劃せられてるのを見る時、人の心には云い知れぬおののきが伝わってくる。
このおののきこそ、秋が持ってる本来の感じである。静まり返り澄み返ってる剥脱の世界に、まざまざと現出せらるる明暗の区劃は、じかに人の心に迫ってきて、真裸な心のうちにも、くっきりとした光と影とが投げられる。そして人は知らず識らずに、自分の心を凝視する専念のうちにはいってゆく。純なるもの、不純なるもの、澄んでるもの、濁ってるもの、それらがきっぱりと形を現わしてくる。
斯かる赤裸な凝視の眼は、それ自身の性質上、未来に向けられないで、ただあるがままの自分自身――過去を荷ってる現在の姿にのみ向けられる。そして自然も人も、秋の世界全体が、自分の赤裸な姿を見守る専念のうちに沈黙する。
この専念の沈黙、それを堪えることが出来、それを真に味感することが出来る者にとってのみ、秋は淋しくも佗しくもない。其処にはただ、清浄なる瞑想のみがある。遠い地平線の彼方へまでさ迷い出る魂が、そのままの憧れを懐いて胸の中に戻ってくる。そして健かな清い感激が、あらゆる雑念を吹き払って、自己の存在感――じかに胎にこたえる存在感――を強調する。
こういう意味に於てのみ、秋は讃美すべきである。そして、修道院の祈願を思わせるような爽快な夜明と、霊的な恋
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