情意の干満
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)見戍る[#「見戍る」は底本では「見戌る」]
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海の潮にも似たる干満を、私は自分の情意に感ずる。
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書物を読み、絵画を見、音楽を聴き、人の話に耳を傾け……而もそれが如何に平凡なものであろうとも、一つの句、一つの色、一つの音、一つの声が、全体の凡庸愚劣卑俗から遊離し昇華して、私の心を打つ。私には全体の見通しがつかず、独立した個々の一部が、偉大なる天才の手に委ねられて、万華鏡の硝子の破片のように――ダイヤのように――閃めく。言葉を信ずべからず、如何なる人の口より発せられたるかを先ず批判せよ、とは真理であるが、ここにはその真理は成り立たない。凡てが誠実の口から発せられる。私の魂は皮膚を剥がれた赤肌である。私は屡々涙ぐんでいる自分をさえ見出す。こういう時私は、批評家ではない。唾棄すべきものをも感嘆するからである。猶更、創作家ではない。反故以下のものをも書きちらすからである。こういう時私は、生活を考えてはいけない。皮相な妥協に甘んずるからである。猶更、社会を考えてはいけない。感傷的な人道主義に陥るからである。私の凡ての精神活動は涙で曇らされる。この涙の曇りを、私はルーソーに見出す。ドストエフスキーに見出す。ルイ・フィリップに見出す。ニイチェにさえも、否大抵の人に多少とも……。そして私の眼には、通俗版画のなかの、キリストを仰ぎ見る使徒たちの眼付が、まざまざと映ってくる。ああいう眼付で彼等はキリストを眺めた筈はない。然し今私は、それに似た眼付で凡てのものを眺める。
情意の干潮の時なのだ。
恋人よ、私は君のことを考える。君のやさしい目差しを、君の微笑みを、君の温かい息を、更に、君の存在のなつかしい香りを……。それが、曇り日の夜明の色とぬるま湯の感触とを帯びて、拡がり拡がり、私の世界を包んでしまう。私の周囲に深く立ち罩め、私の視線を遮ぎり、私の心の奥底にしみこんでくる。書を読む私の眼はいつしか空間に放たれ、物を書く私の手はいつしか机上に置き忘れられて、私はぼんやり君のことを夢みている。夢想のなかの君が現実であるか仮象であるか、私は知らない。何れにせよ、私にとっては、君であることに変りはない、君の存在であることに変りはない。無数の思
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