坪井と郁子とは、酒をのんだり煙草をふかしたりしながら、黙って向い合っていた。始終逢ってる仲で、何も話すことも聞くこともないというような、落付いた様子に見えた。そういう時、時間は何の支障もなくたっていく……。すると、ふいに、郁子は声を出して笑った。
「変ね……こしうしていると、まるで敵《かたき》どうしのようじゃなくって。」
 坪井は別なことを考えているようだった。
「出ましょうか。くるまも待たしてあるから……。」
「どこへ行くんです。」
「どこへでも……。」
 坪井の顔に、冷かな微笑が浮んだ。
「あなたは岡部君に用があったんじゃないんですか。」
 郁子はじっと坪井の顔を眺めた。眺めているうちに、眉がぴりっと動いた。
「岡部さんは、あたしたちがもう一度ゆっくり逢わなけりゃいけないって、そういっていました。まるで、喧嘩別れでもしたようね。……だからあたし、癪にさわったから、その忠告に従ってやっただけです。」
「忠告に……。」
「癪にさわったからよ。ばかばかしい。じゃあ、もういくわ。岡部さんによろしく……。」
 郁子は立上った。全く突然だった。立上ってそして、手袋を片手に握りながら、神経的な……けだかいとも云えるような……高慢さで、室の中をぐるりと見廻して、坪井の方へ向いた。
「送って下さる?」
 坪井は黙って立上った。頭を垂れ、眼を伏せて、彼女のあとについて外に出た。
 淡い光が街路の上に流れていて、自動車の黒塗りの箱が、余りに目近に大きく聳えていた。その影で、坪井は手を差出した。
「ここで、失礼します。」
 彼は郁子の手を握りしめて、眼を地面におとしていた。郁子は立止って待った。運転手はあわてて飛びおりてきて、扉を開いた。
 自動車が走り去ったあと、坪井は暫く棒のようにつっ立っていたが、それから家の中にかけこんだ。
「岡部君……。」と彼は叫んだ。お幾が訝怪そうに彼を見ていた。「すぐ、岡部をよんで下さい。」
 岡部がおりてきた時、坪井は煙草をすいながら歩いていた。梟を思わせる眼が殊に大きく見開かれていた。
「岡部君……よく分った。」と彼は天井の片隅の方を見ながら云った。「こんなところで逢っちゃいけないという意味はよく分った。こんなところで……。」ひどく皮肉な調子だった。「それで、もう帰ってもらった。君も、用が済んだわけだから、行ったらどうだい。あっちで、君に用があるかもしれない。」
 岡部は顔色をかえた。坪井はそれを見つめた。抗弁を許さない眼色だった。
「君は何か……誤解してやしないか。」と岡部は呟いていた。「僕は何もしやしない。ただ……あのひとが来るというもんだから……余計なことだとは思ったが……。一体どうしたんだ……。」
「分ってるよ。君の意味はよく分ってる。僕はいま一人でいたいんだ。帰ってくれ。」
 その気合が、殆んど腕力だった。だが彼の身体は硬直していた。岡部に身体ごとぶつかっていって、外に送りだした。
 彼は両腕を差上げて、大きく伸びをした。その様子を、帳場の上り口からみよ子が眺めて、とんきょうな眼付をして首をすくめた。彼はそれをつかまえて、いきなり抱き上げた。彼女は大きな甲高い声を立てた。身体をもがき、足をばったつかせ、笑いたてながら、両手で坪井の髪の毛を掴んだ。坪井はそれを抱きかかえて、土間を歩き廻った。みよ子は笑い疲れて、ぐったりとなった。坪井の頸にかじりついて、顔をかくしてしまった。坪井は涙ぐんだ眼で、見廻した。お幾が呆気にとられた顔をしていた。島村と村尾とが二階からおりてきて、お幾の後につっ立っていた。
「さあ、こんどは島村さんにおんぶしてみるんだ。」
 坪井はみよ子を皆の前にほうりだした。みよ子は真赤になって逃げていった。その後ろ姿に、坪井の梟のような眼が濡れたまま笑いかけていた。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
   1934(昭和9)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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