、飛びつきたいような親しみを見せた躊躇の素振だった。ただそれだけのものが、東京で私がふれた一番深い感情だったのである。
 それから私は、食事をしに或は酒をのみに、しばしばみますへ行くようになった。お幾とまじめな話をすることもあった。みよ子は小さいときから、三味線と踊りを仕込まれていたが、見どころがあると土地の姐さんのすすめで、芸妓になることになっていた。お酌から出したいのだがいろいろ都合もあり、もう一年たって十七になったら一本でつきだすつもりだと、そんなことをお幾は、以前その土地の花柳界になじんでいたことのある私へ、話とも相談ともつかずもちかけてくるのだった。私もしんみに受け答えするうちに、遂にみよ子の肩を入れて、多少の面倒はみてやるようになった。それは少しも浮いた気持からではなかった。芸妓稼業というものはどうせ浮気な水商売だと一般に見られているが、そして大体はそうであるが、中には、堅気の女よりももっと地道なしっかりした心掛でやってる者もあるのを、私はよく知っていた。みますの片隅の卓子に腰を下して、自分の今後の生活のことを考えたりしながら、お幾親子のその日その日を稼いでゆく生活を頭の中に映して眺めていると、それがひどく嬉しいことに思われ、あらくれすさんだ上海の生活から初めて人の世に立戻ったような気がするのだった。四十を越すまで放浪の生活を続けてきた私にとっては、みよ子の多少の面倒をみてやることは、結局自分の心をいくらかでもいたわることに外ならなかった。それを常識家の岡部から見れば、なかなか利口なやり方だとなるのであろう。あなたまでほんとにそう思ったかどうかは、私の知るところではないが、少なくともあなたは岡部の言葉を有力な楯とした。
 而も、あなたが私を裏切ったその相手の男が、どういう人間であったか。時間をどうしてつぶしたらよいか思い惑ってるような、無為怠惰な成金の次男坊で、水を離れた魚のようにぴちぴちはしてるが、精神の張は少しもない、蒼白いにやけた二十五六歳の、ハイカラボーイだった。香油をぬりたてた頭髪と、縞の絹の襟巻と、女物みたいな細い金鎖とだけで、私にはその人物がすぐに分った。それはあなたの享楽の相手としても危い。私を裏切るための相手としては、あまりにあなた自身をも私をもふみにじるものだった。かりに、芸人だとか、力士だとか、ダンスの教師でも、まだいい。あなたが金をだして買えるような男なら、最もいい。またかりに、あなたが金に困ってるとして、会社の重役などに身を売ったとしても、まだよろしい。そうした一時の享楽の取引は、さっぱりとして、後に滓を残すことは少い。だがああいう男を相手にしては、ねちねちした臭気が身体にこびりつく。あなたのつもりでは、小料理屋の小娘に対する代償として、勝ちほこった見せしめだったかも知れない。然し、かりに私とみよ子との間が、お酌と接客との間のようなものだったと仮定しても、あなたのその評価は全然あべこべだったろう。人間同士の関係として、あなたとあの男とのことよりも、私と小料理屋の娘とのことの方を、私は比較にならぬほど高く評価する。
 あの男とあなたのことは、前からいくらか私の気にならないでもなかった。だが私は無理にも信じてきた。けれども事実の方が力強い。あなたたちが綱島に行き、磯子に行き、伊豆へまで行ったことは、私の耳にも伝わってきた。あの男の内気そうな伏目がちな眼の中の、厚顔な誇りの色は、その曖昧な言葉以上に、いろいろなことを匂わせるのだった。それを、親切な岡部がまた裏付けてくれた。
「あの男はいろんな謎をふりまいてるようで、困ったものだ。今のうちに、なんとか、君の力で富永さんを引止めてくれるといいんだが……。」
 それは、まじめな常識的な言葉だった。その時私はまだ、「みます」のことを彼があなたに話していようとは知らなかった。私はうちのめされた気持で、あなたにぶつかっていった。がその時あなたはもう、煙草をもてあそびながら笑っていた。
 あなたの涙はどこへいってしまったのか。私の信念はどこへいってしまったのか。私たちは互に愛しあってると信じたいと、私はつとめてきた。農園のことまでも考えてきた。それが一度に崩壊してゆくのを、私はどうすることも出来なかった。真心というものは、或る大きさのものが初めから存在するのではない。小さなものから次第に大きく生長してゆくのだ。その生長の途中で、ふいに踏みつぶされてしまった。私は「みます」のことを弁解し、互の愛を説きたてたが、もう万事過去のことになっているのがはっきり感ぜられた。それくらいのこと、お互にどうだっていいじゃないの、というのがあなたの最後の結論だった。恐らくそれがあなたの本心だったろう。
 私の心の中には廃墟が出来た。そのなかにあなたの残骸がはっきり見えた。凹んだ眼と尖った鼻とのあたりに漂ってる異国人めいた風貌、断片的に無連絡的に理智めいた唇、反りのいい手指、毛皮の襟巻、特別あつらえの踵のひきしまった白足袋、または、大戸がしめきってある石の門、玄関まえの美しい砂利、日当りのいい応接室、亡夫の肖像、銀の煙草セット、置戸棚の中の大きな人形……。古人は、国亡びて山河在りと云った。私にとってはそれらのものが、あなたが亡びた後の山河であった。
 富永郁子よ、これまでは普通の愛慾のいきさつである。この後に、あの思いもよらぬ問題が起ってきた。私がそれに最初にふれたのは「みます」でだった。
 私一人でぼんやり酒をのんでいた時、お幾は酌をしてくれながら、もう身を固めたらどうかというような話をもちだした。前にもあった話なので、気にもとめないでいたが、彼女は案外真剣だった。私が茶化せば茶化すほど、ますます彼女は真顔になって、遂にあなたの名前までもちだし、二人は結婚するのが当然だと説くのである。彼女はあなたのことをよく知っていた。私とあなたとの仲もよく知っていた。
「これまでに、そんなことお考えにならなかったというのは、不思議ですねえ。何か差し障りでもあるんですか。」
 そうつきこまれてみると、私はへんに考えこんでしまった。結婚などということを、私は一度でも考えたことがあったか。断じてない。あなたの方でも恐らくそうだったろう。而も私は、二人の生活とか、農園経営とか、そんなことまで考えていた。結婚、そのことだけをどうして考えおとしたのか。而もそうした問題に、私たちの愛が絶望状態に陥ってからぶつかったのである。
 理屈ではなく、私はその時なぜか腹がたった。私には結婚ということも考えるのが当然だったろう。とそう考えることが、私の感情を苛立たせた。私とあなたとの結婚、それは本能的に私を反撥させるものを持っていた。何故か。私には分らない。恐らく、私たちの愛は結婚とは相背馳するような種類のものだったかも知れない。或は私のなかに結婚などというセンスが全然欠けていたのかも知れない。
「僕はあのひとと結婚するくらいなら、むしろみよちゃんと結婚しますよ。」と私はお幾に断言した。それから云い添えた。「でも安心なさいよ。みよちゃんとは結婚もしなければ、指一本ふれもしませんから。僕はみよちゃんの小父さんだからなあ。」
 もし蒼白い微笑というものがあるとすれば、私はそうした微笑を浮べていたろう。みよ子が銚子をもってきた時、私はその可愛い手に握手をして云った。
「僕はいつまでもみよちゃんの小父さんだよ。覚悟しておいで。芸者になっても、何になっても、しっかりしていなくちゃいけない。そうでなけりゃ、ぶんなぐってやるよ。」
 みよ子はその子供の顔に、唇の片端をきゅっとまげて、こまっちゃくれた反抗の表情をした。眼が女らしく笑って、肉の足りない※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]がつんと澄している……。
 私は胸がすっきりと朗かになった。然しその朗かな中に妙に淋しさがすくった。その淋しさは後まで続き、それが私を少し高くへ引上げてくれて、私はなおあなたと連立って人中に出ることが出来た。
 私はまだあなたを愛しているような風を装った。何もかも知りながら高くからあなたをいたわってるような風を装った。だが他人から見れば、あなたに引ずられてるように見えたかも知れない。あなたは無頓着な高慢な態度を持ち続けていた。その側で私は、もしあなたと結婚したら……などと自嘲的に考えながら、ともすると暗い気持に沈むのだった。結婚、ただそれだけの考えが、針のように私の心を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]のは不思議だった。そういう時私は、わざわざあなたに寄り添って歩いた。カフェーの明るい光のなかで、あなたの側で、女給に戯れてもみた。ホールの明暗の色彩のなかで、じみな凝った日本服のあなたを我物のように抱いて、ステップはいい加減に、バンドのつまらない音楽に耳を澄した。そうした私の調子外れに、あなたは好奇な楽しみを覚えたのであろう、ちらと、眼ではいぶかしげな視線を送って、あでやかに笑って見せた。
 そしてあの晩、私は妙に神経が疲れて、早めにダンスホールを出て、あなたを自動車で先に帰して、一人街路を歩いたのだった。気持のせいか街燈の光に力なく、雨でもきそうな空合らしく思われた。私はただ真直に歩いた。そのうち、誰からか後をつけられてることを感じた。その感じがますますはっきりしてきて、或る板塀の上から椎の枝葉がこんもりと差出てる下影まで来た時、立止って振向いてみた。濃茶のソフトをかぶった細そりした身体附の若者が、じっと私の方に眼をつけたまま近よってきた。あの男……あなたが私を裏切るために選んだあの男を、私はその時、平野亮二と名前で呼べる気持になっていた。
「何か用ですか。」
 私はそう言葉をかけておいて、返事もまたないで歩きだした。彼も私と並んで歩いた。暫くして、私はくり返した。何の用ですか。暫くして、彼は云いだした。あなたは富永さんと結婚なさるとかいう噂があるが、本当ですか。暫くして、私は答えた。結婚などは決してしない。電車道と平行したわりに広い静かな裏通りだった。私たちの対話は、数歩の間をおいて、独語の調子で、水中ででもあるように落付いて響いた。私は云った。私と富永さんのことが、一対君に何の関係があるんですか。数歩してから、彼は云った。結婚はなさるまいと思っていたが、もし結婚して下されば、私は助かるんだけれど……。私は立止った。彼の蒼白い整った横顔が、貝殼のように冷たく見えた。そして率直な厚かましい眼付が、たじろぎもしなかった。その眼付を受止めておいて、私はまた歩きだした。僕はもう彼女とは無関係な立場だから、そんな話はやめにしよう。そして歩いてるうちに、彼の姿はいつか消えていた。まるで夢のように浮動した而も明確な情景だった。
 あなたは平野のあの行為を狂言だというけれど、私はそうは思わない。彼のような男にあっては、狂言と真実とは殆んど間一髪の差にすぎなくて、偶然の機会がそれを支配する。彼は私と別れて、あなたに電話をかけた。あなたは丁度家にいた。彼は服薬してあなたのところへ飛びこんだ。そしてあなたの前で昏倒した。手当が早かったので助った。それだけのことである。もしあなたが不在だったら、彼は決して服薬などはしなかったろうし、もし往来で倒れていたら、彼は死んだかも知れない。
 あなたが真先に岡部を電話で呼びよせたのは、賢明な策だった。夜遅く、迎えの自動車で私がかけつけた時には、岡部の配慮でもう万事かたずいていた。岡部と平野の兄と医者と、三人の間に事は秘密に保たれた。平野は翌日はもう回復して、三日目には病院から出た。その間あなたは、家の奥にひきこんで、人にも逢わないようにしていた。高慢なあなたの心は硬直して、一片の情味もたたえていないかのように見えた。平野の行為をでたらめな狂言だとして、癪にさわるという様子だった。その上、あなたは私にまでも攻勢をとってきた。結婚してはどうかという話があるが、聞いたかというのである。私はただ微笑して、あなたの顔に蝋細工のような美しさを認めた。
「そのことは、考えにいれないでおいて下さい。お断りしておきます。」とあ
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